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六-2 三尊の来迎

 越中愛本から黒部の山ふところ十里余りに「帰らず」という大きな岩が突き立つています。ここから奥へ行くと、二度とかえり来ないから「帰らず」と誰いうとなく呼ぶようになつたそうです。この黒部谷に、いつの頃からか在所に死人がありますと、桶に入れうしろの山の高い所を切り均し、葬台と名づけ、死人を入れた桶を日暮れてからこの台の上に据え、親類、縁者、近所、隣の者共寄り集つて念仏称名高らかに唱えているその中に、光明輝いて紫雲靆(たな)びき、二十五菩薩音楽を奏し、彌勒(みろく)・観音・勢至(せいし)の三尊来迎して、葬台に据えてある桶を彌陀如来が手ずから抱えて空に昇り給うと、台下に居並ぶ者共、一心不乱に念仏の声いや高く、随喜の涙にむせぶを常とし、これにて式を終え、参詣者は死人の家に戻り夜食の饗応も賑々しく一同退出するのが昔からの風習でありました。
 この山里に孫左衛門といつて、器量衆に優れた者がありました。つくづく三尊来迎の事で常に不審の雲が晴れない
『極楽から如来さまの来迎ある筈はない。また死人には、善人もあり悪人もあろう、善人ばかりに来迎があつて、悪人に来迎がないではない、善悪押しなべて三尊来迎があつて、浄土へ導き給うこと、かたがた合点ゆかず、こは必ず魔の業だろう』
とかかる考えが胸にわき、三人の悴(せがれ)を膝下に呼んで
『汝等よくよく聞け。ある書物に高い山には、朝日の出る時仏の形のようなもの現れるのを、三尊来迎し給うとある、これは朝日が高山の巌石などに映つり、影が仏の形に見えるということだ、して見ると浄土から仏の出給うのではない。それを三尊来迎し給うといつて、影を礼拝しているのである。この在所の三尊来迎は、死人を取り行くことただ事ではなく魔の業だろう、自分は今歳七十歳に及ぶ命は風前の燈、水上の泡である。何事も夕をたのみがたい、一旦死すとも必ず必ず三尊に渡さないで、土中に埋めて貰いたい、人は万物の霊長である。死んだ後にも遺骸を畜生などにわたすことは残念である。三人共に狩する序に心がければ、三尊の正体をも見出すこともあろう』
と、物語りました。三人口を揃えていう
『仰せのようにきつと魔の業でありましよう。万一、千歳ののちなくなられたら、必ず土葬にいたしましよう』
と、誓いましたので、孫左衛門の喜びは一方でなかつた。間もなく風の心地で床に臥し、無常のかぜに誘われて、終にはかなくこの世を果てました。三人の兄弟、母諸共歎き悲しんだが、詮方なく、父の遺言を守り、土中になきがらを埋めることとなりました。その際兄の孫右衛門は弟どもに向い
『わしが三尊の正体を見届けようと思うから、わしを桶に入れ表向き父の葬送として、葬台に据え置け、桶を取り行かば汝等それぞれ得物を持参し密かにその跡を追うて来い、万一仕損せばそれまでである』
と、短刀抜身に持ちながら桶の中に入つた。日も黄昏(たそがれ)てかの桶を葬台に置き、いずれも念仏を唱えていました。例の如く三尊来迎して桶を取つて行つた。二人の弟今は逃がさずと、その行方を追うて隠れ隠れ敵にさとられずと奥深く進みますと、広い野原に至つて桶を下におろしました。
 孫右衛門は桶の中にいて、予(かね)て拵(こしら)えておいた節穴からのぞき月影にすかして見ると、三尊初め二十五菩薩は異類異形の姿に変化(へんげ)し、桶の蓋を開け死人を食わうと立ち寄る矢先き、内から一刀突きつけるとわつと声揚げ逃げ行くを追い詰め切りつけ、矢庭に六疋まで物の見事に斬り殺し、残るは疵をうけ逃げ失せました。かかる所へ兄弟二人がけ駆け付け来り兄の無事を喜びあいました。
 かくする中に夜も白々と明け渡り、斬り殺した者を一々取り調べ見ると、幾百年たつたか分らない狸であつて、あたりを見回すと死人を入れた空桶が、幾千万と限りなく白骨はうず高く山をなして物凄く、なおも様子を探そうと、血潮を辿り行くと、あるいは穴に匿れ疵を負うて谷影に隠れていました。それを片端から引き出して、残らず切りつくし、一同凱歌を奏して家に戻りました。それからのちは黒部の来迎はとんと止んだそうです。

六-1 越中の浦島

越中国愛本橋の南方黒部谷の山里に老若打ち寄つて日々碁会を初め、交る交る宿を立て碁を打つて楽んでいました。ある日のこと六十歳余りの年寄がのこのこやつて来て
『私は碁が好きです。どうぞ拝見させて下さい』
といつて腰を据え傍に座わり、その討つている碁を凝(じ)つと眺めていました。その中に一人は
『あなたも打たれるなら、私が打ち番だから代つて打つて見なさい』
といえば
『それは有難う。さらばどなたとでも手合せしましよう』
といいましたので、その村で一番強い碁打の人から褒められている者が
『お相手致しましよう』
といいあいせんで打ち始めました。年寄は村の者より五目余りも強そうに見えました。村人は
『貴方は上手にお打ちなさる』
と褒めて遂に六目勝ちました。それから老人とこもごも相手になり打つている間に、その日もいつしか暮れ果てました。
年寄は
『明日また参りましょう』
といつて家に戻りました、それから後は、毎日毎日そこへ遣つて来て日暮れては帰つて行きました。年寄はどこの人だか誰一人聞くものもなく、唯近辺の人だとのみ思い丁度一年を過しました。明くる年のこと一同寄り集まり今日年寄がまだ見えないが、定めし暇いりのあるのだろうと噂していました。
一人がいうよう
『あの年寄は何という者で、どこの人だろう』
誰一人知つている者がない。異口同音に
『どこの人だろうか』
と今更のように不審がり
『年寄が見えれば、一度は宿をして下さいと頼んで、あの宅へ行つて見ようではないか』
といい出せば皆のものが口を揃え
『それこそ面白かろう』
といつているところへ噂すれば影さすとやら、いつもの通り年寄がとぼとぼ向うからやつて来ました。皆の者が年寄に
『あなたは久しい間碁会へお出になりますが、一度おうちで宿をして下さい、私等うち揃うて参りましよう』
老人喜びの色を満面に漂え
『自分はいつから宿をしようと思つていた矢先き、もつけの幸いで御座る。然らば用意も致し明後日改めてお迎えにまいりましよう。皆々必ず御出で下さい』
といつて堅く約束し、碁も終つてから帰りました。その跡で一同のもの
『年寄が宿をするというこそ面白い』
と迎えに来る日遅しと待ちこがれていました。日の立つは早いもの一日千秋の思いをさせたその日になると、朝早く年寄が迎えに来て村の者八人の一行を打ち伴れ、先に立つて黒部の水上を辿りゆきますと、大きな滝が切り立つて崖の上から真直に白布を掛けたように落ちていました。年寄はそこに杖を停め
『この滝の中に人の知らない近道があります。一緒に滝壺の中へ飛び込んで下さい』
といいました。皆の者顔を見合わせ不思議に思いましたが、
いうがままに滝壺の中に飛びこみました。その中は洞になつて立派な大道があります。いずれもいよいよ不思議に思いながら十余町を進みますと、今度は広々として果しも見えない野原に出ました。この原を四五町なおも行きますと真向うに大きな黒い門が見えました。年寄は
『あれに見えるは自分の住家です』
と間もなく門を潜ると、正面に大きな式台があります。大勢鏡板に座わり
『遠方ようこその御出で』
と迎えに出で八人の者を座敷に通しました。間の様子を見渡すと、その綺麗なこと床には唐絵極彩色の三幅対を懸け流し、卓、香炉、床飾、残る隅なく飾り立てて、庭には築山、泉水、滝から蓬莱山、拝台石、守護石、飛石の配りもよく上手な園芸師が手を尽してこしらえた眺め見飽かない景色は、仙境に入つた心地にさせました。年寄が出て来て
『見苦しいはにゆうの小屋にようこそお出で下され誠に嬉しく、ゆつくり逗留してお遊び下さい』
と様々馳走して懇ろにもてなしました。
 翌る日になると、近所から好きな碁の相手とて上手な碁打ち三人来て交る交る打つ碁に一同面白く気を晴らし、それが済むと山海の珍味を調え酒宴を開いてもてなしました。八人の者喜ぶこと限りなく日の過ぎるを覚えません。年寄
『私に一人娘がいます、踊を習わせましたから、今夜は踊らせて御目にかけましよう。奥座敷へ御出で下さい』
といいました。黄昏(たそがれ)時から案内に伴れ一同奥に行きますと、燭台を配り十四五歳から十八歳になる綺麗な娘が居並んで三味線、胡弓、尺八を持ち出し調子をしらべ踊歌を初めると、向うから来るのは娘と見え年の頃二八余りの容顔殊に美しく艶な衣裳を着飾つて踊り出し、隨う大勢の娘共も思い思いの装束で拍子を揃え鳴り物に合わせて踊り、その目ざましいことは限りがないので、八人の者は現(うつつ)を脱かし胆(きも)を天外に飛ばしました。踊もだんだん代り天人踊、唐人踊、伊勢踊、ぜん太皷など数多く、終れは夜はほのぼのと明け渡る。年寄りが出で来て酒を進めました。一同娘の踊を褒め囃(はやし)いて挨拶しました。年寄は
『さて御退屈でありましたろう、まずまずお休み下さい』
といつて一間の寝床に案内させました。いずれも夜明け後まで夢を結びましたが、一人のものが目を醒まし
『さてさて不思議な所に来て四五日も逗留した。いざ帰りましよう』
といえば、一同俄かに帰郷の念沸き起り即時同意して起き出で、年寄に向い
『永々いろいろお手厚い御もてなしに預かつて有難い、最早お暇申しましょう』
年寄は
『折角のお出、せめてはもう二三日逗留して下さい』
といえば、何れも家内の者も待つていましよう、是非帰りたいと申しました。年寄、今は詮方(せんかた)なく
『然らばお心に任せましよう。しかし何か御馳走と存じ世に求め難い魚を今日購いました。これを手に入れるまでには随分心を砕きました。その魚を料理してお上げしましよう。唯今取り掛らせますから皆さん台所にいらつしやいましてどんな魚か御覧下さい』
といいました。何れも料理場に伴われその魚を見ると頭は人の形で丸く、目・耳・鼻・口あつて胴は鯛(たい)のようでありました。いずれも見慣れない魚だから名は何と申す魚ですと問えば「人魚です」
と答えました。皆々かかる珍しい魚を御求めの御礼申述べ難いと喜び元の座敷に戻りました。しかしいずれも初めて見た魚だから何となく恐れ慄きました。年寄は膳を運ばせ
『只今馳走します魚は至つて得がたく風味勝(すぐ)れ、之を食べますと長生します。緩(ゆつ)くり召し上つて下さい』
と挨拶しました。皆の者料理した魚を見ると刺身のように作つたもの、八人の者ども食べるように見せかけ懐紙を取り出しその魚を包み
『かような珍魚を独りで食べるのも惜しく、頂き帰つて家内のものに分けて食べさせましよう』
その他数々出た馳走のもてなしを受け
『さらばお暇しましよう』
と年寄に向い
『この間中は身に余る御叮嚀なおもてなしに預り御礼申しつくしがたい』
と厚く挨拶して立ち出れば、内の者は揃うて門の外まで見送り名残りを惜みました。年寄は
『自分は滝までお送り申しましよう』
と八人の先に立つて例の滝まで案内し
『これから外へ飛び出して下さい』
と挨拶して立ち別れました。皆々教えられた通り滝から飛び出し川縁に至つて、くだんの紙に包んだ魚を川に捨て
『さても不思議な所にいつて遊び面白く気を慰めた』
と話し合い銘々家にかえりました。家内の者ども胆を潰し死んだものが甦つた心地して一同を出迎え
『今までどこに居られましたか、八人づれで出られた日から今年で三年になります』
といえば、皆々顔を見合わせてびつくり仰天しました。紙に包んだ魚を捨てずに一人だけ持つて来ましたが、何心なく取り出したのを傍にいた今年十歳になる娘が土産と心得独りで食べてしまいました。日を経て八人の者が老人につれられて行つた滝を尋ねましたがさらに見当りません。ここぞと思う道もなく如何なる所であつたろうと、又々胆をつぶしました。それから後は年寄も来ず不思議の物語となりました。しかしかの魚を食べた娘が成長して他へ縁付きましたが、年をとつても老(おい)もせず長生して三百歳の寿命を保つたと伝えます。

六 黒部峡谷の秘密

 名にし負う日本北アルプスの黒部峡谷は、人も知る立山山脈と飛騨山系に挟まれ千古の秘密を蔵めて人跡未踏の地を存し、天下屈指の大峡谷であります。本県中新川・下新川両郡を縦断し、黒部川は飛信越の国境に位する鷲羽か嶽から発源し、天を摩する山毛欅(ぶな)や唐松や白樺の鬱蒼たる大山林の下を急転直下の勢を以て、二十里の間深く谷を抉(えぐ)つて流れ、花崗岩や片麻岩から成る高い山や険しい峰々が聳え立ち、断崖何千尺あるか分らない。奔馬のような急湍は白雪を飛ばし、山脚を洗い更に水中の怪巌奇石に突き当つて玉と散り余勢は一大飛沫となり、岩上の青松に映る原始的の大峡谷は日本三奇橋の誉も高い愛本橋に至り、始めて広い平野に向い、山容水態の豪宕清艶(ごうとうせいえん)は真に天下の仙峡と称えます。
 昔の人々はこの大峡谷を如何に観察しましたろうか、試みに旧記を辿ると
『千山万嶽重畳として危険な恐ろしい谷だから、行くことが出来ない。唯木を伐る樵(きこり)が奥深く入る。併し道という路がないので黒部の川縁に沿い、断崖絶壁の上を攀(よ)ずるに、脚下数百仭目眩み、脚戦(おのの)き、細道ひろうて進み川には大木を切つて橋とし渡らねばならん。信州へ出る間道がある。峡谷の入口たる内山村から先きは人里がない。山奥が遠いので詳しいことは分からないが、山中には杉、檜(ひのき)、槇など多い。しかしそれを伐り出すことが出来ないのは惜しいことだ。山深い地に赤牛か嶽といつて朱のような真赤な山や、又半里四方もある明礬(みょうばん)山や水晶を産する山もある。その他半里余も長さ六七尺余りの葱(ねぎ)が茅原のようになつて成長し、一里余り一尺回りの竹や色々の薬草が生え茂つている』
と奇々怪々な事を書き列(つら)ねてあります。
 探検にはまだ指を染めない幽谷も開けゆく御世の光に照らされまして、山林は黒部国有林の大団地として無尽蔵の良材を出し、いたるところ黒部・祖母谷・鐘釣・黒薙・二見・宇奈月の霊泉湧き出て、夏季この温泉に入浴して病を治し俗塵を洗うものや、近年山岳跋渉の熱高くこの難険の谷を越えて山路を踏み分け、北アルプスの霊峯、立山や大蓮華山の絶頂に登る健脚の探検家も年を逐うて多く、他に発電、採礦、石材など自然の恵みを開拓しようとするものは数え切れません。
 大正七年の夏遠く木管を以て二見温泉を引いて愛本温泉を開湯して浴客の便を図り、陸軍歩兵学校の催しに係る飛行射撃最初の試みに全国に稀な好適地として一層その名が世間に知られるようになりました。同十一年日本電力会社の発電事業の経営及び附帯事業として愛本温泉を買収して宇奈月温泉を起し、黒部鉄道を通じて黒部峡谷の開発事業に努力して広く天下に紹介いています。この峡谷に古来どのような伝説が包まれていましたろうか、これから物語ることと致します。

五 名物愛本の粽(ちまき)

 日本北アルプスの谷間を流れる越中黒部の水が愛本に来て始めて扇の様に拡がる平原に頭を出し、老樹古木覆い被る両岸断崖絶壁の相対する岩脚に衝突し、碧潭(へきたん)渦を巻いて物凄くその上に一本の支柱なく『アーチ』形を誇るは日本三奇橋で名高い愛本橋であります。橋下幾十丈、試みに一升樽に水を入れその口から水をあけると、滔々一筋の紐となつて落ち樽の水のつきてなくなる頃漸く水面に落ち初めるといい伝え、古来幾千年ここの水はあせたことはありません。
 昔この橋の袂に徳左衛門という一軒の茶屋があつて旅人に渋茶一服、一ぜん飯など出いてその日を送つていました。この徳左衛門にお光という一人の可愛い娘がいましたが、谷間に生える白百合の色香深からねど、綻び初めた十八歳の優しい綺麗な姿、朝は川霧の冷たい中に起きて雨戸をあけ、店先の掃除、掃除が終ると村の娘達と一緒に声郎かに歌を口ずさみながら日々岩根をよぢて薪を採るに余念なく、常に老いたる両親を喜ばせました。近郷近在に孝行娘の名も高く、近間の若者達は勿論遠い庄屋や肝煎(きもいり)の一人息子からも縁を求める者も数多くありました。
 ある晩親子三人打ち寄つて世間話をしていますとトントンと戸をたたく者がありますから、戸外へ出て見ると誰もいません。この様な変なことが三晩もつづきました。翌る朝両親は早く起きて仕事にかかり日も随分高く上つたのに、いつも早起きのお光は一向起き出た気配もありません。不思議に思つてお光の寝床をのぞいて見ると、寝ている筈のお光の姿が見えません。変なことがあるものと思つて、近所隣の心易い所を片端から尋ね回りましたが一向判らないので、さては誰かにかどわかされたに相違ないと、数日間というものは気が気でありません、徳左衛門夫婦は血眼になってそこここと探しましたが、さらに手懸りはありませんので、今は根気負けして亡きものとあきらめるより外はありませんでした。かくてその年は去り、次の年も夢のように過ぎて、次の年の盂蘭盆(うらぼん)が訪ずれました。徳左衛門の家では、十三日の晩可愛い娘の三年忌に当り、ありし日の過ぎさつた事ども思い続けて、今更のように老の目をうるおしていました。もう戸締を済まして休もうとしていますと、庭先に軽い足音がして、トントンと戸を叩く音があります。耳をそばだてると『お母アさんお母アさん』と呼ぶ声がするので、なんとなく聞き覚えのある声ゆえ、母は驚いて愛着の念片時も忘れ得ない娘の声なのに駆け出て、あわただしく戸を明けると紛う方ない生みのお光が笹の粽(ちまき)を土産に持ち帰りました。夢かとばかり抱き入れ、夫婦喜んで労りもてなし、かつ越し方のありし事ども語り聞かせよといいましたが、お光ははずかしがる様態で少しも口にしませんでした。かくて翌日お光は母に向つて
『どうぞぬるみ湯を桶に入れて次の納戸(なんど)へ運んで下さい。私は産気づいたのでそこで身二つになろうと思います。しかし一生のお願い、産所へは必ず立ち入り下さるな』
といつて納戸に入り、戸をしかと締めました。見るなと念を押されたもののいよいよ見たいのは自然の人情、殊に年来忘れる暇もなかつた自分の娘の初産(ういざん)が気にかかり、また可愛いい初孫を見ることと思えば嬉しさ堪え兼ね、お光の固い嘆願をも打ち忘れそつと障子の隙間から納戸の内を覗きました。こわそもいかに、世にも類ないと謡われた美しい娘はいつしか蛇体と変わりいますので、思わずびつくりして声をあげて泣きさけびました。・・・・・・
 お光は忽ちもとの姿にたちかえり、何度より出で来て無念の涙せきあえず
『かほどまで私の願いを反故(ほご)にされました上は、親子の縁はこれ限り、別れのかたみに申し残して置きます。土産に持ち参りました粽は幾年たつても腐ることのない珍しい品であります。日に日に老い行かれる御両親は助ける者なくてはお困りでしよう。この粽で今世を安く送り下さい』
といつて精しくそのつくり方を伝授し、最早この家にいることは出来ません、これにてお暇申し上げますと外へ出たので、徳左衛門夫婦あわてふためき
『やよ娘・・・・・・何とてかくは急くぞ・・・・・・暫し止まれ・・・・・・。まだ初孫(ういまご)の顔も見ないのに・・・・・・』
と追い縋ろうとすれば、お光の足はいと早く、雲を霞と忽ち愛本橋の岸に至り、あなやと見る間に大蛇と化身し、すらすらと水底深く姿を隠しました。
 この伝説に基づいた笹の粽は、今日も愛本橋の畔、下立(おりたて)の茶屋で売り出され、この地の名物として世間に知れ渡つています。

四 うるし千ばい朱千ばい

 富山市郊外呉羽山の裾野とも申します婦負郡長岡村、今の長岡御廟の隣地旧共同墓地西南の隅に長者屋敷というところがありまして、昔から里謡を永く伝えました。
『うるし千ばい朱千ばい黄金(こがね)の鶏(とり)が一番(ひとつがい)朝日輝く夕日さすみつはうつぎの下にある』
 今から百年以前、ここを、長者が子孫に譲る宝をうずめてある『朝日輝く夕日さす三つはうつ木の下』だと手前勝手な解釈をして、ある日のこと里人集会の折に、たまたまこの里謡の話がわき出て、そこを掘ればきつとよい宝が出るに相違ないと一人がいい出しますと、慾に目のない連中は異口同音に賛成しまして発掘の話が立どころに一決しました。
 翌る朝大勢の若者がてんでに鍬をかついで長者屋敷に来て一生懸命に土をほりかえしますと、駒引銭(こまびきせん)が少々出ました。これに力を得て、さらに勇を振るい汗水ながして今度こそは黄金の鶏一番(ひとつがい)ほり上げようと、あせれどあせれどあとは何一つ出ません、所謂『骨折り損のくたびれもうけ』という大滑稽を演じたそうです。
 因みに申します、出ないのがあたり前で、考古学者の説によりますと、昔貴人の死んだ当時後世の木遣節のような歌を謡うたもので、その歌が年久しく伝つたものだそうです。
つぶやき
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