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九 諏訪神社にまつわる話

 人皇第五十八代光孝天皇の御世、近江国伊吹山に鳬彦(かもひこ)とゆう兇賊おつて近国を押領(おうりょう)し、北陸地方にも彼の同類蔓(はびこ)つて民を苦めし騒擾を醸(かも)しました。天皇は御心を悩まさせられ、越前の住人甲賀三郎に悪徒退治の御言葉があり、援兵として越中宮川庄高柳の住人郷田次郎をそえられ、二人は勅命を奉じてまず伊吹山の賊を平らげ、続いて飛騨から越中に入り、連戦連勝破竹の勢で奸徒を全滅させました。
 凱旋の後越中は次郎の郷里なので暫く三郎を己が家にとめて饗応しました。ある日のこと三郎は只(ただ)一人馬に跨り渺茫(ひょうぼう)とした大原の野を通り、四辺の景色に見惚れつつ広い河原に出ました。頃は秋の末つ方、霜に染まつて燃える紅葉が錦をかざつています。駒を進めて楓の林中に入りひよつと片脇を見ますと大きな穴がある。不思議に思い駒をよせてその中を覘(のぞ)くと一人の綺麗な姫君がおられました。三郎は怪んで
『あなたは如何なる御方か』
姫君驚く気色もなく顔振り上げ
『妾はここに捨てられたもの、君もし情けあらば助け給え』
元来三郎は思い遣(や)りの深い人で姫君の言葉を聞いて哀れを催し同情の念堪え難く
『助け上げ参らせよう』
といい、鎧の総角(あげまき)を解いて穴の中へ下げると、姫君はかしこくそのあげまきにしかと縋り付き、三郎は難なく地上へ曳き上げました。三郎つくづく見れば歳は二八ばかりと覚えられ、容色殊に艶麗で凡人とは思われない。
『如何なる御方にて何の咎のましまして、かくつれなくもこの穴に棄てられ給うぞ、包みかくさず物語りたまへ、御両親の御許へ伴い、よきにお詫び申し上げましよう』
姫君は満面に喜面を湛え
『助けまします御事さえ浅からぬ次第なるに、いとど深い御情け何をつつみまいらせましよう。さりながら妾を害しようと、今にも人の来るならば、君のおんためあしくなり、我が身も如何なりゆこう、お話の間もありませんから、急ぎ一先ずここを立ち去つていずれへなりとも伴い給われ』
三郎はさらばと、直ぐ姫君を馬に抱き乗せ河原の表に出ました。すると姫君は
『御身妾を助け給うとき、あわてて母の形見として給つた銀の鏡を打ち忘れ来ました。何卒とり得させ給え』
と、三郎聞いて
『いと易いこと、暫らく待ち給え』
と馬を楓の木につなぎ、まさに駈(か)け行こうとした時、次郎は三郎の帰りの遅いのを心配してわざわざ尋ねに来ました。三郎はしかじかのことを語り一緒にいつて鏡を取ろうと、大穴の縁(ふち)に来て三郎あげまきのはしを握り、片端を次郎に持たせて穴の中に
下りました。次郎は姫君のあまりの美しいのに恋い慕う心むらむらと起り、奪い取つて妻にしようと思い、三郎あつては邪魔だと握るあげまきを放しますと、三郎は忽ち穴のどん底へおちて影さえみえないようになりました。次郎もつけの幸いと姫君の方へ走りゆき
『ただ今三郎あやまつて穴の中へ落ちて、影も形も見えず助けるすべもありません。この上は致し方ないから自宅の宅へお供しまいらせましよう』
と偽り、姫君を馬にのせ次郎の館へ伴い来ました。それから次郎は姫君の心を慰めようと千々(ちぢ)に心を砕いてもてなしましたが、憤然としてものをもいわれない。今は次郎も困りはてて、下人(げにん)に申し付け姫君を棄ててしまえと下知しました。
 下人姫君を抱き上げ馬に乗せようとしましたが、盤石よりもなお重く怒気満面に溢れてさもすさまじい。次郎いとも怖しく身の毛もよだつばかりで、走り逃げようとしましたが、全身すくみ一歩も動けない。今は詮方なく、姫君に向い
『何事も許し給え』
と只管(ひたすら)詫びました。姫君はすこし顔色を和らげ
『我は諏訪の神である。この地に跡をたれ、三郎に出逢い楓が原にて出顕した。しかるに汝が横暴に妨げられ、三郎は既に信州に去り、我独りここに留る、池水濁らば人も清(す)むまじ、我が誓いを無駄にするな』
と宣(たま)い忽ち姿は見えなくなりました。次郎初めて諏訪の神なるを知り、急ぎ詣でて拝謝せんと大穴を窺うと、清水が湧き澰灔(れんえん)たる池となりました。次郎低頭平身して只管(ひたすら)神に罪を謝しその池の畔に小祠をこさえ、神を勧請して諏訪大明神と崇め奉りました。三郎は穴のどん底に落ちたが、神の加護のいと渥(あつ)く地中に一道あり、路に沿うて辿り行つたこと一千百日、その間少しも腹の飢(う)えることなく、信州を経て遂に駿州江尻の松が根というところに出で、間もなく世を去りましたが、そこに神として祭られ、また珍しい遺愛の球斑杖も越法寺に蔵するといいます。
 諏訪の池はその深いこと幾尋だか分らず、夏の日の旱魃にも水少しも減(へ)らず、中に一尺余の魚多く、人万一捕え食べますと必ず気狂いまた癩(らい)病になりました。この池の主はいもりに似て腹赤く脊黒く四肢あり、丈(た)け一丈余、水上に顕れる時は胴より上を出し眼光凄まじく見るものを驚怖させました。また池の中から、夜更けて火玉ふき水面に燃え暫くして消えたと伝え、この祠後世頽廃して一時山王社地に移され、富山城主二世前田正甫公の治世時代、南部草寿(なんぶそうじゅ)社地跡に小祠をこしらえて祀り、昭和年中さらに再興せられて現今に至りました。

八 立山の蟻王殿(ぎおうでん)

 越中立山の麓に昔一人の樵(きこり)がおり、薪を背負うて市中に出て商ひ渡世をしていました。ある日のこと、この山に登つて遥かに谷間を見渡しますと、その谷が旭日に輝き土も石も一面に黄金色を彩つて美しい事譬(たと)えようなく、また竹が生え茂つてまわり二尺あまりのものもかず多く、いと不思議に思い谷に下りて見ますと、山の上で見たと少しも違わず黄金の世界、いよいよ不審に思つて、あたりを見ると、その谷は広々として果もなく、山のふところに細道を認めました。この道を辿つて四五町歩むと広い高原に出ました。真向いに立派な御殿が甍(いらか)を連ね空高く聳えています。大きな黒金(くろがね)の門前に来て仰ぎ見ると、門の上に蟻王殿と筆太く染められた大額が掲げられ、その金文字が輝き黄金の光に照りわたり、門内には殿閣が建ち並んで異香四方に香り、現世の極楽世界かはた仙界もかくあろうかと魂は天外に飛び、暫しぼうとしてそこにたたずんでいました。
 かかるところに門の内より衣冠束帯の粧(よそお)い正しい人が、沓(くつ)を履(は)き手には羽扇を持ち樵を招いて、
『もしもし、あなたがここにお出になることを大王はお知りで、急ぎ案内するよう仰せをうけてお迎えに罷(まかり)出ました。何卒一緒(よし)においで下さい』
杣人は恐れて辞退しました。
『恐れることは少しもありません、私に随つて下さい』
と手を執る、樵引かれて御殿に登れば、大王出迎え互に挨拶をする。大王は
『私はあなたに先年大恩をうけたことがあり、一門けんぞくに至るまで御蔭にて身命を繋いでいます、この恩返しをしようと思いつつ延(のび)々になつて申訳ありません』
と山海の珍味を出して酒宴を開きもてなしました。時に奥の間より一人の女中が大王の前にかしこまり
『稀人(まれびと)の御入来の由、お逢い致したいからおいで下さい』
と申し上げる。大王樵に向い
『妻も御目にかかりたいと申し越しました、さあどうぞ』
樵は大王に伴われ廊下伝いにその部屋に行きますと、綺麗なこと言葉に演(の)べ難く、庭の怪巌奇石の配置よく、泉水の流れは清く所々茶亭が建ち並び、向うから侍女が出迎え大王と共に座ると、后と見えて玉の冠を頂き、その粧い金と玉とで飾り燃え立つ緋(ひ)の袴(はかま)を着け、あまたの侍女にかしづかれ、樵にむかい
『ようこそおいで下された、大恩をうけたことまことに辱(かたじけな)く御礼を申したく存じます』
侍女に申し付け管弦を催す。いずれも音曲の妙技を発揮して、琴をひき歌をうたい、見慣れぬことの面白さ、日の暮れるのも明けるのも知らず、遊興終ると侍女が広蓋に衣類を持ち来て、この衣類を召し替えたまえと杣人の着物を着替えさせ、更に冠を頂かせると高官の姿と打つて変わつた。樵心に思うよう
『私は賤しい身分でこんな盛装をし、毎日の楽みに逢うこと只ごとではありません、その上、大王も后も恩を着るとの言葉、自分には少しも覚えがない、一体ここはどんなところということも弁えず誠に不思議千万です』
そのとき、後に声があつて
『君の御恩は海山に比ぶべく、報いても報いがたい、我が領地の国中を一目にお見せしましよう』
大王に申し上げ杣人を慰め高楼に登ろうといいました。大王は聞いて一興あろうと、后諸共樵を伴い楼に登ると眼下に民のかまど賑わしく所々に煙立ち上り、遠山の雲を棚引かせた堂塔仏閣その他四方の風光が実によく見える。そこでも酒を侑(すす)め、珍物の魚かず多く、侍女の酌で数盃をかたむけ、大王や后と共に酔に臥して暫しまどろんだが、時を告げる鞺鞳の太鼓の音に皆々目覚め、高楼から下りて元の御殿に帰りました。
 樵は久しくここにいまして故郷を忘れていましたが、俄かに帰心が起り、大王にむかい
『ここに来て久しくお世話になりました、妻子も待つていましようからお暇致しましょう』
という、大王も后もいま暫し止まり下さいと進めたが、是非帰りたいと申すので今は止めがたく、大王は
『そもそも私は人間でなく蟻の王であります、私がある年、国中飢饉で難儀の折柄、君は谷に一箇の梨を捨てられた、私はこれを拾い国中数多の飢えを救い助けました。君はこれを知られなくても、今ここに来て下さつたので御恩にお報いします』
と、金盃に金を沢山積みあまたの巻物を添え持ち帰り下さいと差出し、大王と后は御殿を下り別れを惜んで見送り、また数多の召仕の者に元来た谷まで送らせました。
 樵は暇乞いして黄金巻物をかついでかの谷よりはい上り、我が家をさして帰つたが妻も子も既に亡くなって、今は孫の世と変わり、十日、二十日と思つていたのがつい五十年の春秋を送つてかえつたと伝えます。

七 立山の開山

 立山は早くから富士や白山と共に日本三霊山と世に崇められています。しかし本邦諸高山の群がる大山脈、所謂日本アルプス中に於て雄大なる銀雪が殆んど一万尺の峰頭に立つて霊験あらたかな雄山神社を拝み、高山大嶽の大観を視界に収める、古来この大自然境を背景として幾多の伝説が、谷々をつたう渓流と共にそこここにながれています。
 今から千二百年余り前、文武天皇の御世大宝元年のことでありました。我等の郷土越中の国へ佐伯有若卿を遺して国を治めさせられました。有若卿が越中に下り、今の下新川郡布施(ふせ)の犬山という所に舘を構えて役所を開かれました。
 有若卿は日頃からだの羽毛が純白な、見るも神々しい一羽の鷹を飼つておられました。このような鷹は国にめでたいことのある時にあらわれるものでまことに得がたい鳥だといつて非常に大事にして育てておられました。
 有若卿には有頼といつて今歳十六になる一人の若者がありました。年齢(とし)に似合わない体格の立派な、人並勝れた力を持ち、ことに矢を射ることが名人で、いつも勇ましい遊びばかりしておられました。ある日のこと一人の召使をつれて野良に出て、鷹狩りしようとお父さんのお飼いになる白鷹を早速お願いして借り出し、小躍りして出掛けられました。
 有頼卿は向うの大きな松の枝に丁度(ちょうど)よい獲物を見つけられたので天の与えと喜び、すぐ狩りを始めようとおもつて、鷹を放なされました。鷹はどうしたものか、獲物を捕つて戻ろうとはせず、そのまま大空高く飛び去つてしまいました。さあ困りました、おとう様の大事な鷹を飛ばしては大変だと、真蒼になつて舘に帰り
『おとう様白羽の鷹は鳥を捕らずにどこかへ飛んでいつてしまいました。まことに申訳ございません、どうぞお許し下さいませ』
有若卿は世にも珍しく目出度い白鷹を放つてしまつたので、口惜しくもあり腹も立つ
『あのようなめでたい白羽の鷹は二度と捕えること出来ないから、よく気をつけよと、あれほどお前にいうて置いたではないか、それに野良へ出るか出ない中にもう放つてしまつたとは、それはまたどうした訳だ、いけないいけない許されません、お前はあの鷹を捕えてかえらぬ中は舘に入ることはなりません』
と厳しく𠮟られました。
 有頼卿は誠に申訳のないことをした、おとうさんがこの様にお叱りなさるのは、並大抵のことでない。万一自分の過ちのためにお気分が悪くなり、お勤めの上にさわるようなことがあつては大変であると、孝行な親思いの卿は気を取り直し逃げて行つたものなら取り返えされないことはあるまい、これから出掛けて、是非ともあの白羽の鷹を捕えてかえろう。
『おとうさま、それでは、私はこれから白羽の鷹をさがしに参ります。屹度(きっと)捕えて戻りますから、どうぞ暫くの間お暇を下さいませ』
と父上に申し上げて、早速旅支度をととのえ、鷹を尋ねに舘を立ち出でられました。
 有頼卿は鷹狩した野良から白鷹の飛び去つた方を指して、野といわず林といわず、一途に捜し行き、風が吹こうと雨が降ろうと、夜を目についで一生懸命探し回られましたが、さらに見当りません。
 そうこうしている中に、つい森の中で道を踏み迷ひ方角が分りません。途方に暮れていますと、不意に向うの木蔭から現われたのは、銀の針金のような長い鬚(ひげ)の生えた気高い老人で、ギラギラした眼で有頼を睨(にら)みました。
『コラツ!若者その方は誰だ、何用あつてこの森に入り込んだか』
有頼卿『はい私は佐伯有頼と申します、この度父上の大切に飼つていられる白羽の鷹を放しましたので、実はそれを探しに参つたのでございます』
老人は次第にやさしい顔になり
『白羽の鷹を――』
有頼卿『ハイそれは全身が真白な珍しい鷹でございますから遠目で見てもすぐわかります』
老人『あれか、あの白羽の鷹なら知つている知つている』
有頼卿『あなたは御覧になりましたか』
老人『アアその白羽の鷹ならば、この方角辰巳(たつみ)(東南)をさして尋ねてごらん、屹度(きっと)つかまるにちがいない、善い心掛けの若者じや早く行くがよい』
有頼卿『はい御親切有難うございました』
有頼卿は老人に路をおそわり、喜び勇んで進みました。森を離れますと、向こうの谿(たに)の上をフワリフワリと飛んでいる白い鳥があります。胸躍らせて見ます中に、その鳥は崖の上の樹に舞い下りました。じつと見ますに放れた白羽の鷹でしたから、いたいたと心に叫びましたが、おちついて静に腰なる呼子笛を細いやさしい鈴をふるような音で吹きました。すると白鷹は、有頼の方を見ていましたが、忽ち風を切つて飛びおり有頼卿がさしだされた拳の上に、フウワリと止まりました。
『オオ鷹々よく帰つて呉れた、お前が逃げたというので、おとうさんはどんなに御心配遊ばしたか知れない、さあ直ぐ舘に戻ろう』
と、大喜びで羽毛を撫でたり、抱いたり申されますと、鷹も嬉しそうに毛づくろいをしたり頸をかしげたり致します。
『ではすぐに戻ろう』
と二足三足歩みます中に、かたわらの叢からガサガサ音がして不意にあらわれたのは一匹の大きい熊で有頼を目がけて爪を鳴らして襲いかかろうといたしますから、鷹はびつくりしてサツと空へ飛び立ちました。
『コラ無礼者ツ!』
と持つている大弓に矢を番(つが)えて、その熊の胸元目がけて射つけられました。狙い外れず月の輪にグサと刺しとおりますと、さすがの猛(た)け猛けしい熊もタジタジとなりましたが、つづいて矢を番えるのを見あわてて逃げ出した。有頼卿は熊を追払うとホツと一息、それにしてもこの騒ぎに白鷹はどこへ飛んでいつたろうと、あたりを見回しましたが、すでに遠くへ逃げたと見えてさらに姿が見えません。
『くやしいくやしい又しても逃がしてしまつた、おのれ、につくき熊奴(め)が』
と、もう夢中になつてそのまま熊の痕(あと)を追いかけました、山に棲み馴れている熊のこと、なかなか肢(あし)が早くとうとう叢に姿をかくしてしまいました。
『困つた困つた』
と、ふと足元を俯(うつむ)きますと、熊の垂れ血がこぼれています、ポタリポタリと草を赤く染めて・・・・・・。
『そうだこの血をたどつて行つたら、熊の逃げ場をつきとめることが出来よう』
と、これからこぼれ血をたどつて、だんだん山奥へ進まれました、進みに進んで渓川の畔に出ました、見ると逃げた熊はこの谿(たに)川を渉つて、向岸から森に入つた痕を認めました。しかし、水が深くして瀬が早く、大きい滝のような流れで渉ることが出来ません、どうしたものだろうと、もじもじしていますと、忽ちあたりがキラキラとして黄金色の毛皮をした一匹の猪が有頼卿の前に出て来ました。
『一難去つて、また一厄が来たのか』
と、弓を取り直して構えますと、猪は前の熊とうつてかわつて、いかにも馴(なれ)々れしく静かに有頼卿に背を見せまして
『さアお乗りなさい、川は私がお渡し致しましよう』
といいそうにいたしますから、有頼卿は
『いやこれは悪かつた、それでは遠慮なく乗りますよ』
と、ヒラリとその背に乗りますと、猪は何の苦もなく川をわたり向う岸に有頼卿を下したと見ると、そのまま有頼卿がまだお礼もいわれない中に、フイと姿を隠しました。
 熊の垂れ血は次第に険しい坂にかかつています。有頼卿は熊をつきとめるまでは、どんなひどい坂や崖でも引返さないと、さらに勇み進んでまいります中に、今まで一点の雲もなかつた空が、俄かに墨を流したように曇つて稲光がする雷がなる、ザアツとばかり、岩石も崩すようなひどい夕立となりました。
『これは大変こんな雨では、切角ここまで辿つて来た熊の血も流れてしまう』
と、気を揉(も)んで進みます中に、一寸先きも見えなくなりました。さすが強い卿も途方にくれて立つておられますと、闇の中に飛び回る奇妙な獣がしきりと有頼卿の行手を邪魔しそうに見えますから、矢庭に腰の刀を抜いで突きさされますと、その獣はキヤツと一声叫んで姿をかくしてしまいました。すると不思議に獣の姿が消え、同時に夕立もからりと霽(は)れてあかるくなりました。益々勇みに勇んでまたもや熊のあとを追われました。かくして一日熊の後を追うて次第に山に登りやがて岩屋の入口に寄つて、そつと奥の様子を窺いますと、闇の中からパツと眼(まなこ)眩(くら)む光、驚いてよく見れば、熊と思いの外仏が三体、それも胸に矢傷を受けながらにこにこと、お立ちになつておられました。余り意外なのに暫し言葉も出ません、暫く跪(ひざまづ)いて
『今まで熊と思つて追いかけたのは、仏様でございましたか』
と申しますと
『そうだそうだ鷹となり熊と姿をかえたのも、その方をここまで導こうためであつた。有頼其方(そのほう)は、世々の人々のために、この霊山を開いて、誰にでも山に登られる様にして呉れよ』
という仏の言葉がありましたので、卿は大いによろこび、すぐお受けして、山を下られました、舘にかえりおとうさんに一ぶ始終を物語られました。有若卿
『それは感心感心、白羽の鷹を取り返えそうとて、よくもそこまで突き止めてくれた、その強いお前の精神を、仏様も御覧下されて、さてこそそのようなお言付(ことづけ)もあつたのであろう。この後一層修行をつんで仏様のお言葉の通り立派に山を開いて貰いたい』
と、話されたので、有頼卿は遂に仏様のお言葉通り、山の上まで道を開き人々が沢山登山して参詣するようにされました。これが立山を開かれたいわれのお話、今から二百十余年前、浪花今の大阪市の寺島良安という人が倭漢三才図会(わかんさんさいずえ)を著したのが根本となつていろいろの古い書物に拡げられ、世に知れ渡つたものであります。

六-2 三尊の来迎

 越中愛本から黒部の山ふところ十里余りに「帰らず」という大きな岩が突き立つています。ここから奥へ行くと、二度とかえり来ないから「帰らず」と誰いうとなく呼ぶようになつたそうです。この黒部谷に、いつの頃からか在所に死人がありますと、桶に入れうしろの山の高い所を切り均し、葬台と名づけ、死人を入れた桶を日暮れてからこの台の上に据え、親類、縁者、近所、隣の者共寄り集つて念仏称名高らかに唱えているその中に、光明輝いて紫雲靆(たな)びき、二十五菩薩音楽を奏し、彌勒(みろく)・観音・勢至(せいし)の三尊来迎して、葬台に据えてある桶を彌陀如来が手ずから抱えて空に昇り給うと、台下に居並ぶ者共、一心不乱に念仏の声いや高く、随喜の涙にむせぶを常とし、これにて式を終え、参詣者は死人の家に戻り夜食の饗応も賑々しく一同退出するのが昔からの風習でありました。
 この山里に孫左衛門といつて、器量衆に優れた者がありました。つくづく三尊来迎の事で常に不審の雲が晴れない
『極楽から如来さまの来迎ある筈はない。また死人には、善人もあり悪人もあろう、善人ばかりに来迎があつて、悪人に来迎がないではない、善悪押しなべて三尊来迎があつて、浄土へ導き給うこと、かたがた合点ゆかず、こは必ず魔の業だろう』
とかかる考えが胸にわき、三人の悴(せがれ)を膝下に呼んで
『汝等よくよく聞け。ある書物に高い山には、朝日の出る時仏の形のようなもの現れるのを、三尊来迎し給うとある、これは朝日が高山の巌石などに映つり、影が仏の形に見えるということだ、して見ると浄土から仏の出給うのではない。それを三尊来迎し給うといつて、影を礼拝しているのである。この在所の三尊来迎は、死人を取り行くことただ事ではなく魔の業だろう、自分は今歳七十歳に及ぶ命は風前の燈、水上の泡である。何事も夕をたのみがたい、一旦死すとも必ず必ず三尊に渡さないで、土中に埋めて貰いたい、人は万物の霊長である。死んだ後にも遺骸を畜生などにわたすことは残念である。三人共に狩する序に心がければ、三尊の正体をも見出すこともあろう』
と、物語りました。三人口を揃えていう
『仰せのようにきつと魔の業でありましよう。万一、千歳ののちなくなられたら、必ず土葬にいたしましよう』
と、誓いましたので、孫左衛門の喜びは一方でなかつた。間もなく風の心地で床に臥し、無常のかぜに誘われて、終にはかなくこの世を果てました。三人の兄弟、母諸共歎き悲しんだが、詮方なく、父の遺言を守り、土中になきがらを埋めることとなりました。その際兄の孫右衛門は弟どもに向い
『わしが三尊の正体を見届けようと思うから、わしを桶に入れ表向き父の葬送として、葬台に据え置け、桶を取り行かば汝等それぞれ得物を持参し密かにその跡を追うて来い、万一仕損せばそれまでである』
と、短刀抜身に持ちながら桶の中に入つた。日も黄昏(たそがれ)てかの桶を葬台に置き、いずれも念仏を唱えていました。例の如く三尊来迎して桶を取つて行つた。二人の弟今は逃がさずと、その行方を追うて隠れ隠れ敵にさとられずと奥深く進みますと、広い野原に至つて桶を下におろしました。
 孫右衛門は桶の中にいて、予(かね)て拵(こしら)えておいた節穴からのぞき月影にすかして見ると、三尊初め二十五菩薩は異類異形の姿に変化(へんげ)し、桶の蓋を開け死人を食わうと立ち寄る矢先き、内から一刀突きつけるとわつと声揚げ逃げ行くを追い詰め切りつけ、矢庭に六疋まで物の見事に斬り殺し、残るは疵をうけ逃げ失せました。かかる所へ兄弟二人がけ駆け付け来り兄の無事を喜びあいました。
 かくする中に夜も白々と明け渡り、斬り殺した者を一々取り調べ見ると、幾百年たつたか分らない狸であつて、あたりを見回すと死人を入れた空桶が、幾千万と限りなく白骨はうず高く山をなして物凄く、なおも様子を探そうと、血潮を辿り行くと、あるいは穴に匿れ疵を負うて谷影に隠れていました。それを片端から引き出して、残らず切りつくし、一同凱歌を奏して家に戻りました。それからのちは黒部の来迎はとんと止んだそうです。

六-1 越中の浦島

越中国愛本橋の南方黒部谷の山里に老若打ち寄つて日々碁会を初め、交る交る宿を立て碁を打つて楽んでいました。ある日のこと六十歳余りの年寄がのこのこやつて来て
『私は碁が好きです。どうぞ拝見させて下さい』
といつて腰を据え傍に座わり、その討つている碁を凝(じ)つと眺めていました。その中に一人は
『あなたも打たれるなら、私が打ち番だから代つて打つて見なさい』
といえば
『それは有難う。さらばどなたとでも手合せしましよう』
といいましたので、その村で一番強い碁打の人から褒められている者が
『お相手致しましよう』
といいあいせんで打ち始めました。年寄は村の者より五目余りも強そうに見えました。村人は
『貴方は上手にお打ちなさる』
と褒めて遂に六目勝ちました。それから老人とこもごも相手になり打つている間に、その日もいつしか暮れ果てました。
年寄は
『明日また参りましょう』
といつて家に戻りました、それから後は、毎日毎日そこへ遣つて来て日暮れては帰つて行きました。年寄はどこの人だか誰一人聞くものもなく、唯近辺の人だとのみ思い丁度一年を過しました。明くる年のこと一同寄り集まり今日年寄がまだ見えないが、定めし暇いりのあるのだろうと噂していました。
一人がいうよう
『あの年寄は何という者で、どこの人だろう』
誰一人知つている者がない。異口同音に
『どこの人だろうか』
と今更のように不審がり
『年寄が見えれば、一度は宿をして下さいと頼んで、あの宅へ行つて見ようではないか』
といい出せば皆のものが口を揃え
『それこそ面白かろう』
といつているところへ噂すれば影さすとやら、いつもの通り年寄がとぼとぼ向うからやつて来ました。皆の者が年寄に
『あなたは久しい間碁会へお出になりますが、一度おうちで宿をして下さい、私等うち揃うて参りましよう』
老人喜びの色を満面に漂え
『自分はいつから宿をしようと思つていた矢先き、もつけの幸いで御座る。然らば用意も致し明後日改めてお迎えにまいりましよう。皆々必ず御出で下さい』
といつて堅く約束し、碁も終つてから帰りました。その跡で一同のもの
『年寄が宿をするというこそ面白い』
と迎えに来る日遅しと待ちこがれていました。日の立つは早いもの一日千秋の思いをさせたその日になると、朝早く年寄が迎えに来て村の者八人の一行を打ち伴れ、先に立つて黒部の水上を辿りゆきますと、大きな滝が切り立つて崖の上から真直に白布を掛けたように落ちていました。年寄はそこに杖を停め
『この滝の中に人の知らない近道があります。一緒に滝壺の中へ飛び込んで下さい』
といいました。皆の者顔を見合わせ不思議に思いましたが、
いうがままに滝壺の中に飛びこみました。その中は洞になつて立派な大道があります。いずれもいよいよ不思議に思いながら十余町を進みますと、今度は広々として果しも見えない野原に出ました。この原を四五町なおも行きますと真向うに大きな黒い門が見えました。年寄は
『あれに見えるは自分の住家です』
と間もなく門を潜ると、正面に大きな式台があります。大勢鏡板に座わり
『遠方ようこその御出で』
と迎えに出で八人の者を座敷に通しました。間の様子を見渡すと、その綺麗なこと床には唐絵極彩色の三幅対を懸け流し、卓、香炉、床飾、残る隅なく飾り立てて、庭には築山、泉水、滝から蓬莱山、拝台石、守護石、飛石の配りもよく上手な園芸師が手を尽してこしらえた眺め見飽かない景色は、仙境に入つた心地にさせました。年寄が出て来て
『見苦しいはにゆうの小屋にようこそお出で下され誠に嬉しく、ゆつくり逗留してお遊び下さい』
と様々馳走して懇ろにもてなしました。
 翌る日になると、近所から好きな碁の相手とて上手な碁打ち三人来て交る交る打つ碁に一同面白く気を晴らし、それが済むと山海の珍味を調え酒宴を開いてもてなしました。八人の者喜ぶこと限りなく日の過ぎるを覚えません。年寄
『私に一人娘がいます、踊を習わせましたから、今夜は踊らせて御目にかけましよう。奥座敷へ御出で下さい』
といいました。黄昏(たそがれ)時から案内に伴れ一同奥に行きますと、燭台を配り十四五歳から十八歳になる綺麗な娘が居並んで三味線、胡弓、尺八を持ち出し調子をしらべ踊歌を初めると、向うから来るのは娘と見え年の頃二八余りの容顔殊に美しく艶な衣裳を着飾つて踊り出し、隨う大勢の娘共も思い思いの装束で拍子を揃え鳴り物に合わせて踊り、その目ざましいことは限りがないので、八人の者は現(うつつ)を脱かし胆(きも)を天外に飛ばしました。踊もだんだん代り天人踊、唐人踊、伊勢踊、ぜん太皷など数多く、終れは夜はほのぼのと明け渡る。年寄りが出で来て酒を進めました。一同娘の踊を褒め囃(はやし)いて挨拶しました。年寄は
『さて御退屈でありましたろう、まずまずお休み下さい』
といつて一間の寝床に案内させました。いずれも夜明け後まで夢を結びましたが、一人のものが目を醒まし
『さてさて不思議な所に来て四五日も逗留した。いざ帰りましよう』
といえば、一同俄かに帰郷の念沸き起り即時同意して起き出で、年寄に向い
『永々いろいろお手厚い御もてなしに預かつて有難い、最早お暇申しましょう』
年寄は
『折角のお出、せめてはもう二三日逗留して下さい』
といえば、何れも家内の者も待つていましよう、是非帰りたいと申しました。年寄、今は詮方(せんかた)なく
『然らばお心に任せましよう。しかし何か御馳走と存じ世に求め難い魚を今日購いました。これを手に入れるまでには随分心を砕きました。その魚を料理してお上げしましよう。唯今取り掛らせますから皆さん台所にいらつしやいましてどんな魚か御覧下さい』
といいました。何れも料理場に伴われその魚を見ると頭は人の形で丸く、目・耳・鼻・口あつて胴は鯛(たい)のようでありました。いずれも見慣れない魚だから名は何と申す魚ですと問えば「人魚です」
と答えました。皆々かかる珍しい魚を御求めの御礼申述べ難いと喜び元の座敷に戻りました。しかしいずれも初めて見た魚だから何となく恐れ慄きました。年寄は膳を運ばせ
『只今馳走します魚は至つて得がたく風味勝(すぐ)れ、之を食べますと長生します。緩(ゆつ)くり召し上つて下さい』
と挨拶しました。皆の者料理した魚を見ると刺身のように作つたもの、八人の者ども食べるように見せかけ懐紙を取り出しその魚を包み
『かような珍魚を独りで食べるのも惜しく、頂き帰つて家内のものに分けて食べさせましよう』
その他数々出た馳走のもてなしを受け
『さらばお暇しましよう』
と年寄に向い
『この間中は身に余る御叮嚀なおもてなしに預り御礼申しつくしがたい』
と厚く挨拶して立ち出れば、内の者は揃うて門の外まで見送り名残りを惜みました。年寄は
『自分は滝までお送り申しましよう』
と八人の先に立つて例の滝まで案内し
『これから外へ飛び出して下さい』
と挨拶して立ち別れました。皆々教えられた通り滝から飛び出し川縁に至つて、くだんの紙に包んだ魚を川に捨て
『さても不思議な所にいつて遊び面白く気を慰めた』
と話し合い銘々家にかえりました。家内の者ども胆を潰し死んだものが甦つた心地して一同を出迎え
『今までどこに居られましたか、八人づれで出られた日から今年で三年になります』
といえば、皆々顔を見合わせてびつくり仰天しました。紙に包んだ魚を捨てずに一人だけ持つて来ましたが、何心なく取り出したのを傍にいた今年十歳になる娘が土産と心得独りで食べてしまいました。日を経て八人の者が老人につれられて行つた滝を尋ねましたがさらに見当りません。ここぞと思う道もなく如何なる所であつたろうと、又々胆をつぶしました。それから後は年寄も来ず不思議の物語となりました。しかしかの魚を食べた娘が成長して他へ縁付きましたが、年をとつても老(おい)もせず長生して三百歳の寿命を保つたと伝えます。
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