ニホンオオカミ

「伝説とやま(北日本放送㈱)」に「大沢野町誌」を出典として以下のような民話が紹介されている(私的なメモのため一部改変)。

"富山市大沢野町大久保の上大久保と中大久保の間に小高い丘があり、その東側にあった池は子供達の遊び場になっていた。ある日、1人の子守女が主人の子を連れて遊ばせていると、山犬(狼)が忍び寄り、主人の子を喰おうとした。そのことに気付いた子守女は大声で助けを求めたが、近くに誰もおらず、主人の子を連れて共に逃げることも見捨てることもできなかった。そこで子守女はとっさに主人の子に覆いかぶさり、山犬の牙にかかって血まみれになった。しばらくしてこれに気付いた人々が慌てて近寄ると、子守女は既に死んでいたが、腹の下に隠していた主人の子は無事だった。人々は子守女の健気なおこないをたたえ、この丘を女中山(べいやま)と呼ぶようになり、後に訛って弁山(べんやま)になったという。ちなみに"べい"とは女中を意味する方言とのことである。"

先日、パオロ・マッツァリーノ著「みんなの道徳解体新書(㈱筑摩書房)」を読んでいたらp142-143に大正9年改訂版の国定修身教科書に掲載されていた「子守りおつな」という以下のような話が紹介されていた(ふりがなや改行は改変)。

"若狭(現在の北陸地方)の漁師の娘おつなは、一五歳のとき子守り奉公に出された。ある日、主人のこどもをおぶって遊んでいると、野犬がとびかかってきた。犬を振り切って逃げることはできないと判断したおつなは、おぶっていた子を地面におろし、自分がその上に被さった。犬は激しくおつなに噛みつき、多くの傷を負わせた。ようやく駆けつけた人々が犬を打ち殺した。こどもにケガはなかったが、おつなは負傷がひどく、まもなく息絶えた。人々は感心し、おつなのために石碑を立てた。"

2つの話は似ている、と言うより細かい設定を除けば同じ内容である。弁山は現存しないようだが、Googleで「おつな 石碑」と検索するとWikipediaに以下の記事があり、石碑だけでなく石像まで建てられているようである。

"綱女(つな じょ、1755年- 1769年)は、江戸時代に活躍した若狭国の子守である。

1755年(宝暦5年)、福井県遠敷郡小松原村に生まれた。父は漁夫をしていた角左衛門。家は貧しく、15歳で同郡西津の人松見茂太夫(郡手代)の家に子守として奉公したが、ある日、茂太夫の幼児義方をあやして路傍にいたところに狂犬があらわれてきたので、綱は義方を身を以ておおいかぶせ、自分は狂犬の咬むにまかせ、身に十数傷を受け、しかも毅然として幼児を守りとげた。隣人が驚いてはせあつまり、綱を介抱し、茂太夫の家につれかえったが、綱は身の重傷をわすれ、ひたすら義方の無事であったことをよろこんだが、24日目についに死亡した。綱の忠烈な行為は領主の耳に達し、父角左衛門は多額の金を賞与され、綱は西徳寺内にほうむられ、墓碑には「忠烈綱女の墓」と誌された。後3年にして領主はさらに角左衛門に免租し、かつ綱の墓を西徳寺門外に改葬し、寺僧に金をあたえてながく墓守をさせることにした。しかし歳月をへるにしたがって墓は荒廃し、埋葬の場所さえ不明になったので、その後同郡小学校長会の尽力によりあらたに「綱女の墓」なる墓標がたてられ、綱女墓碑保存会によって保存されることになった。"

国立国会図書館サーチ書誌詳細によると「大沢野町誌」は昭和33年(1958年)刊行で、弁山の話の初出は現時点でこの本である。また、綱女の話に対して弁山の話は犠牲者の名前も時代も不明で、弁山も現存しないため場所の特定は不可、そもそも冒頭に出てくる丘や池が実在したかどうかの確証もない。伝説が先行している状態で、単なる地名由来譚でしかない。

これらのことから弁山の話は史実ではなく、綱女の話が伝播して土着した伝説ではないか、という仮説が立てられるため、今後検証を行っていきたい。

(参考文献)
伝説とやま
みんなの県政1973年(昭和48年)2月号No.50p19越中の伝説 弁山
大沢野町誌
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一二 2竜女の与えた竜梅水

 高岡たらい野という所に、名高い瑞竜寺の隠居庵の真興寺という禅宗のお寺がありました。このお寺へいつ頃からか二八余りの美目よい一人の娘が身に綺麗な衣装を着飾り、毎朝雨の降る日も、風の吹く日も怠らず参詣しました。寺の和尚さんが不思議に思い、ある日のこと娘に向い
『御身はどこからお参りなさる、毎朝かかさず御参詣神妙の至り』
とほめました。娘はうつむいて
『お恥しいことながら、おたずねだから包みかくさず申し上げましよう。私は元来人間ではございません。この裏の池に住む竜女でございます。現世、未来の苦みを助かりたく念願し毎日お参り致します。何卒血脈(けちみやく)をお授け下さるようお願いします』
和尚さんはこれを聞いて
『そわいと易い事、さらば明朝お参りの時にお授け申しましよう』
娘『こわ、ありがたい、日頃の念願成就』
と喜び勇んで明朝を約し縁に出で庭に下りたと見る間に忽ち三尺余りの蛇に化けていずくともなく影失せました。
 翌る朝、和尚さんは読経(どきよう)をすまし娘に対面してもんもんを唱え戒名をさずけ血脈を与えました。娘は随喜の涙を流いて押し頂き
『お礼のしるしにきれいな水を参らせましよう』
といい、そのまま姿が消え失せました。程なく寺の庭の中に浄水三尺余り湧き出て、そのほとりに俄かに一本の枝振りのよい梅の木がぬつくと生えましたから、竜梅水と名づけこの名水を村中の人達が樋(とい)を伏せて水を導き飲料水に供しました。

一二 1竜女孝子を助く

 婦負郡古里村長沢の山中にある、一つの小さい池を走影池(はしりかげのいけ)といいます。大昔此の地に六治古(ろくじこ)というものがありました。年のいかない時に父に別れ一生懸命働いて田畑を耕作し、母を大事にしたのでその親孝行は専ら世間の評判になつて誰一人褒(ほ)めない者はありません。年二十になりましたがまだ定まつた妻がいなかつたのです。
 ある日の暮れ方、二八あまりの綺麗な一人の娘が雪路を踏み迷い一夜の宿を乞いますと、母は之をあわれみ家に留めました。日を重ね六治古の妻になる縁談がまとまり婚礼をあげ、間もなく、妻は唯ならない身となつて玉のような一男児、六郎を産みました。
 袋の中から自分が紡ぎ織つた布を取り出し牛馬や農具に替え、自ら人夫を率いてそれと共に荒地を開墾し用水を掘り水を引いて数多の新田に灌ぎました。今の山田川がこれであります。かように働いたので、秋の実入(みいり)も多く、段々身代もゆたかになつて郷里に肩を比べるものなく立派な豪農に出世しました。
 六郎七歳の頃、一日妻は六治古に向い
『私はもともと竜女であります。御身の親孝行に感じ竜王私に君を助けさせられました。今から竜王の許へ帰ります』
と暇乞いし空に向つて昇ると見る刹那、空は俄かに墨を流して真闇となり、雷雨が烈しく耳をつんざました。親子は泣き叫んで追い、一つの池を見出し水中を覗きますと母の面影がありありと水面をはせ通いました。それにちなんで後世、この池を走影池(はしりかげのいけ)というようになりました。

一二 辰年の伝説さまざま

 今昭和三年は辰が幅を利かす歳だから、辰に関する伝説を述べることとしました。古来越中各地に言い囃(はや)され、
自分も幼い頃寝物語に、年寄から聞かされた話も少なくはありません。今から考えると、昔は世の中開けず、理科的知識に乏しいので、烈しい旋風が海では水を、陸では土砂をまき上げて柱をたてたようになつて空へ昇る。所謂竜巻(たつまき)を見て全く竜が天に昇るものと信じました。なお日本海に沿うている海辺の漁師どもが富山湾へ漁に出て『辰の落し子』という長さ一、二寸から三、四寸位、首は馬に似て形は蛇のような小さい動物が折々網にかかるので、これを竜の子だといい、いよいよ伝説の竜の存在を確めました。
 仏法の伝来に伴い、妖僧が宗旨を拡める手段に使い、色々人事上の怪談をこれに絡みつけ、愚民を惑わしたものらしく、しかしその中には教訓を含んだものもあつて棄てられないものもあります。これから古い越中の人は如何に竜を取扱いましたか、古い本にかき残されたものを拾いあつめて、お正月の慰みに供しましよう。

一一 足洗川の橋地蔵

 昔富山市の太田口町が太田の保に出る町端で、里人など町へ入ると蓮照寺というお寺の前を流れる小川にて足を洗いましたので誰いうことなく足洗川といいました。
 その頃この川のほとりに悪い狐や狸がしばしば出て、人をだまし持つている魚などいろいろな食物をすり取つたりしたので、難儀したものが多くありました。
 一休和尚が越中蜷川庄最勝寺に巡錫の折、そのことを聞いて、板石に地蔵を刻み、橋として行き来の人々に踏ませられましたので漸くその事が止みました。
 かようの伝説を生んだ橋地蔵は富山市が南へ南へと拡がると共に町も南に進み、今は西中野町と小泉町の境界地の東側小川の上の小地蔵堂の橋板となつて通る人々に踏まれています。