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七 立山の開山

 立山は早くから富士や白山と共に日本三霊山と世に崇められています。しかし本邦諸高山の群がる大山脈、所謂日本アルプス中に於て雄大なる銀雪が殆んど一万尺の峰頭に立つて霊験あらたかな雄山神社を拝み、高山大嶽の大観を視界に収める、古来この大自然境を背景として幾多の伝説が、谷々をつたう渓流と共にそこここにながれています。
 今から千二百年余り前、文武天皇の御世大宝元年のことでありました。我等の郷土越中の国へ佐伯有若卿を遺して国を治めさせられました。有若卿が越中に下り、今の下新川郡布施(ふせ)の犬山という所に舘を構えて役所を開かれました。
 有若卿は日頃からだの羽毛が純白な、見るも神々しい一羽の鷹を飼つておられました。このような鷹は国にめでたいことのある時にあらわれるものでまことに得がたい鳥だといつて非常に大事にして育てておられました。
 有若卿には有頼といつて今歳十六になる一人の若者がありました。年齢(とし)に似合わない体格の立派な、人並勝れた力を持ち、ことに矢を射ることが名人で、いつも勇ましい遊びばかりしておられました。ある日のこと一人の召使をつれて野良に出て、鷹狩りしようとお父さんのお飼いになる白鷹を早速お願いして借り出し、小躍りして出掛けられました。
 有頼卿は向うの大きな松の枝に丁度(ちょうど)よい獲物を見つけられたので天の与えと喜び、すぐ狩りを始めようとおもつて、鷹を放なされました。鷹はどうしたものか、獲物を捕つて戻ろうとはせず、そのまま大空高く飛び去つてしまいました。さあ困りました、おとう様の大事な鷹を飛ばしては大変だと、真蒼になつて舘に帰り
『おとう様白羽の鷹は鳥を捕らずにどこかへ飛んでいつてしまいました。まことに申訳ございません、どうぞお許し下さいませ』
有若卿は世にも珍しく目出度い白鷹を放つてしまつたので、口惜しくもあり腹も立つ
『あのようなめでたい白羽の鷹は二度と捕えること出来ないから、よく気をつけよと、あれほどお前にいうて置いたではないか、それに野良へ出るか出ない中にもう放つてしまつたとは、それはまたどうした訳だ、いけないいけない許されません、お前はあの鷹を捕えてかえらぬ中は舘に入ることはなりません』
と厳しく𠮟られました。
 有頼卿は誠に申訳のないことをした、おとうさんがこの様にお叱りなさるのは、並大抵のことでない。万一自分の過ちのためにお気分が悪くなり、お勤めの上にさわるようなことがあつては大変であると、孝行な親思いの卿は気を取り直し逃げて行つたものなら取り返えされないことはあるまい、これから出掛けて、是非ともあの白羽の鷹を捕えてかえろう。
『おとうさま、それでは、私はこれから白羽の鷹をさがしに参ります。屹度(きっと)捕えて戻りますから、どうぞ暫くの間お暇を下さいませ』
と父上に申し上げて、早速旅支度をととのえ、鷹を尋ねに舘を立ち出でられました。
 有頼卿は鷹狩した野良から白鷹の飛び去つた方を指して、野といわず林といわず、一途に捜し行き、風が吹こうと雨が降ろうと、夜を目についで一生懸命探し回られましたが、さらに見当りません。
 そうこうしている中に、つい森の中で道を踏み迷ひ方角が分りません。途方に暮れていますと、不意に向うの木蔭から現われたのは、銀の針金のような長い鬚(ひげ)の生えた気高い老人で、ギラギラした眼で有頼を睨(にら)みました。
『コラツ!若者その方は誰だ、何用あつてこの森に入り込んだか』
有頼卿『はい私は佐伯有頼と申します、この度父上の大切に飼つていられる白羽の鷹を放しましたので、実はそれを探しに参つたのでございます』
老人は次第にやさしい顔になり
『白羽の鷹を――』
有頼卿『ハイそれは全身が真白な珍しい鷹でございますから遠目で見てもすぐわかります』
老人『あれか、あの白羽の鷹なら知つている知つている』
有頼卿『あなたは御覧になりましたか』
老人『アアその白羽の鷹ならば、この方角辰巳(たつみ)(東南)をさして尋ねてごらん、屹度(きっと)つかまるにちがいない、善い心掛けの若者じや早く行くがよい』
有頼卿『はい御親切有難うございました』
有頼卿は老人に路をおそわり、喜び勇んで進みました。森を離れますと、向こうの谿(たに)の上をフワリフワリと飛んでいる白い鳥があります。胸躍らせて見ます中に、その鳥は崖の上の樹に舞い下りました。じつと見ますに放れた白羽の鷹でしたから、いたいたと心に叫びましたが、おちついて静に腰なる呼子笛を細いやさしい鈴をふるような音で吹きました。すると白鷹は、有頼の方を見ていましたが、忽ち風を切つて飛びおり有頼卿がさしだされた拳の上に、フウワリと止まりました。
『オオ鷹々よく帰つて呉れた、お前が逃げたというので、おとうさんはどんなに御心配遊ばしたか知れない、さあ直ぐ舘に戻ろう』
と、大喜びで羽毛を撫でたり、抱いたり申されますと、鷹も嬉しそうに毛づくろいをしたり頸をかしげたり致します。
『ではすぐに戻ろう』
と二足三足歩みます中に、かたわらの叢からガサガサ音がして不意にあらわれたのは一匹の大きい熊で有頼を目がけて爪を鳴らして襲いかかろうといたしますから、鷹はびつくりしてサツと空へ飛び立ちました。
『コラ無礼者ツ!』
と持つている大弓に矢を番(つが)えて、その熊の胸元目がけて射つけられました。狙い外れず月の輪にグサと刺しとおりますと、さすがの猛(た)け猛けしい熊もタジタジとなりましたが、つづいて矢を番えるのを見あわてて逃げ出した。有頼卿は熊を追払うとホツと一息、それにしてもこの騒ぎに白鷹はどこへ飛んでいつたろうと、あたりを見回しましたが、すでに遠くへ逃げたと見えてさらに姿が見えません。
『くやしいくやしい又しても逃がしてしまつた、おのれ、につくき熊奴(め)が』
と、もう夢中になつてそのまま熊の痕(あと)を追いかけました、山に棲み馴れている熊のこと、なかなか肢(あし)が早くとうとう叢に姿をかくしてしまいました。
『困つた困つた』
と、ふと足元を俯(うつむ)きますと、熊の垂れ血がこぼれています、ポタリポタリと草を赤く染めて・・・・・・。
『そうだこの血をたどつて行つたら、熊の逃げ場をつきとめることが出来よう』
と、これからこぼれ血をたどつて、だんだん山奥へ進まれました、進みに進んで渓川の畔に出ました、見ると逃げた熊はこの谿(たに)川を渉つて、向岸から森に入つた痕を認めました。しかし、水が深くして瀬が早く、大きい滝のような流れで渉ることが出来ません、どうしたものだろうと、もじもじしていますと、忽ちあたりがキラキラとして黄金色の毛皮をした一匹の猪が有頼卿の前に出て来ました。
『一難去つて、また一厄が来たのか』
と、弓を取り直して構えますと、猪は前の熊とうつてかわつて、いかにも馴(なれ)々れしく静かに有頼卿に背を見せまして
『さアお乗りなさい、川は私がお渡し致しましよう』
といいそうにいたしますから、有頼卿は
『いやこれは悪かつた、それでは遠慮なく乗りますよ』
と、ヒラリとその背に乗りますと、猪は何の苦もなく川をわたり向う岸に有頼卿を下したと見ると、そのまま有頼卿がまだお礼もいわれない中に、フイと姿を隠しました。
 熊の垂れ血は次第に険しい坂にかかつています。有頼卿は熊をつきとめるまでは、どんなひどい坂や崖でも引返さないと、さらに勇み進んでまいります中に、今まで一点の雲もなかつた空が、俄かに墨を流したように曇つて稲光がする雷がなる、ザアツとばかり、岩石も崩すようなひどい夕立となりました。
『これは大変こんな雨では、切角ここまで辿つて来た熊の血も流れてしまう』
と、気を揉(も)んで進みます中に、一寸先きも見えなくなりました。さすが強い卿も途方にくれて立つておられますと、闇の中に飛び回る奇妙な獣がしきりと有頼卿の行手を邪魔しそうに見えますから、矢庭に腰の刀を抜いで突きさされますと、その獣はキヤツと一声叫んで姿をかくしてしまいました。すると不思議に獣の姿が消え、同時に夕立もからりと霽(は)れてあかるくなりました。益々勇みに勇んでまたもや熊のあとを追われました。かくして一日熊の後を追うて次第に山に登りやがて岩屋の入口に寄つて、そつと奥の様子を窺いますと、闇の中からパツと眼(まなこ)眩(くら)む光、驚いてよく見れば、熊と思いの外仏が三体、それも胸に矢傷を受けながらにこにこと、お立ちになつておられました。余り意外なのに暫し言葉も出ません、暫く跪(ひざまづ)いて
『今まで熊と思つて追いかけたのは、仏様でございましたか』
と申しますと
『そうだそうだ鷹となり熊と姿をかえたのも、その方をここまで導こうためであつた。有頼其方(そのほう)は、世々の人々のために、この霊山を開いて、誰にでも山に登られる様にして呉れよ』
という仏の言葉がありましたので、卿は大いによろこび、すぐお受けして、山を下られました、舘にかえりおとうさんに一ぶ始終を物語られました。有若卿
『それは感心感心、白羽の鷹を取り返えそうとて、よくもそこまで突き止めてくれた、その強いお前の精神を、仏様も御覧下されて、さてこそそのようなお言付(ことづけ)もあつたのであろう。この後一層修行をつんで仏様のお言葉の通り立派に山を開いて貰いたい』
と、話されたので、有頼卿は遂に仏様のお言葉通り、山の上まで道を開き人々が沢山登山して参詣するようにされました。これが立山を開かれたいわれのお話、今から二百十余年前、浪花今の大阪市の寺島良安という人が倭漢三才図会(わかんさんさいずえ)を著したのが根本となつていろいろの古い書物に拡げられ、世に知れ渡つたものであります。
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六-2 三尊の来迎

 越中愛本から黒部の山ふところ十里余りに「帰らず」という大きな岩が突き立つています。ここから奥へ行くと、二度とかえり来ないから「帰らず」と誰いうとなく呼ぶようになつたそうです。この黒部谷に、いつの頃からか在所に死人がありますと、桶に入れうしろの山の高い所を切り均し、葬台と名づけ、死人を入れた桶を日暮れてからこの台の上に据え、親類、縁者、近所、隣の者共寄り集つて念仏称名高らかに唱えているその中に、光明輝いて紫雲靆(たな)びき、二十五菩薩音楽を奏し、彌勒(みろく)・観音・勢至(せいし)の三尊来迎して、葬台に据えてある桶を彌陀如来が手ずから抱えて空に昇り給うと、台下に居並ぶ者共、一心不乱に念仏の声いや高く、随喜の涙にむせぶを常とし、これにて式を終え、参詣者は死人の家に戻り夜食の饗応も賑々しく一同退出するのが昔からの風習でありました。
 この山里に孫左衛門といつて、器量衆に優れた者がありました。つくづく三尊来迎の事で常に不審の雲が晴れない
『極楽から如来さまの来迎ある筈はない。また死人には、善人もあり悪人もあろう、善人ばかりに来迎があつて、悪人に来迎がないではない、善悪押しなべて三尊来迎があつて、浄土へ導き給うこと、かたがた合点ゆかず、こは必ず魔の業だろう』
とかかる考えが胸にわき、三人の悴(せがれ)を膝下に呼んで
『汝等よくよく聞け。ある書物に高い山には、朝日の出る時仏の形のようなもの現れるのを、三尊来迎し給うとある、これは朝日が高山の巌石などに映つり、影が仏の形に見えるということだ、して見ると浄土から仏の出給うのではない。それを三尊来迎し給うといつて、影を礼拝しているのである。この在所の三尊来迎は、死人を取り行くことただ事ではなく魔の業だろう、自分は今歳七十歳に及ぶ命は風前の燈、水上の泡である。何事も夕をたのみがたい、一旦死すとも必ず必ず三尊に渡さないで、土中に埋めて貰いたい、人は万物の霊長である。死んだ後にも遺骸を畜生などにわたすことは残念である。三人共に狩する序に心がければ、三尊の正体をも見出すこともあろう』
と、物語りました。三人口を揃えていう
『仰せのようにきつと魔の業でありましよう。万一、千歳ののちなくなられたら、必ず土葬にいたしましよう』
と、誓いましたので、孫左衛門の喜びは一方でなかつた。間もなく風の心地で床に臥し、無常のかぜに誘われて、終にはかなくこの世を果てました。三人の兄弟、母諸共歎き悲しんだが、詮方なく、父の遺言を守り、土中になきがらを埋めることとなりました。その際兄の孫右衛門は弟どもに向い
『わしが三尊の正体を見届けようと思うから、わしを桶に入れ表向き父の葬送として、葬台に据え置け、桶を取り行かば汝等それぞれ得物を持参し密かにその跡を追うて来い、万一仕損せばそれまでである』
と、短刀抜身に持ちながら桶の中に入つた。日も黄昏(たそがれ)てかの桶を葬台に置き、いずれも念仏を唱えていました。例の如く三尊来迎して桶を取つて行つた。二人の弟今は逃がさずと、その行方を追うて隠れ隠れ敵にさとられずと奥深く進みますと、広い野原に至つて桶を下におろしました。
 孫右衛門は桶の中にいて、予(かね)て拵(こしら)えておいた節穴からのぞき月影にすかして見ると、三尊初め二十五菩薩は異類異形の姿に変化(へんげ)し、桶の蓋を開け死人を食わうと立ち寄る矢先き、内から一刀突きつけるとわつと声揚げ逃げ行くを追い詰め切りつけ、矢庭に六疋まで物の見事に斬り殺し、残るは疵をうけ逃げ失せました。かかる所へ兄弟二人がけ駆け付け来り兄の無事を喜びあいました。
 かくする中に夜も白々と明け渡り、斬り殺した者を一々取り調べ見ると、幾百年たつたか分らない狸であつて、あたりを見回すと死人を入れた空桶が、幾千万と限りなく白骨はうず高く山をなして物凄く、なおも様子を探そうと、血潮を辿り行くと、あるいは穴に匿れ疵を負うて谷影に隠れていました。それを片端から引き出して、残らず切りつくし、一同凱歌を奏して家に戻りました。それからのちは黒部の来迎はとんと止んだそうです。

六-1 越中の浦島

越中国愛本橋の南方黒部谷の山里に老若打ち寄つて日々碁会を初め、交る交る宿を立て碁を打つて楽んでいました。ある日のこと六十歳余りの年寄がのこのこやつて来て
『私は碁が好きです。どうぞ拝見させて下さい』
といつて腰を据え傍に座わり、その討つている碁を凝(じ)つと眺めていました。その中に一人は
『あなたも打たれるなら、私が打ち番だから代つて打つて見なさい』
といえば
『それは有難う。さらばどなたとでも手合せしましよう』
といいましたので、その村で一番強い碁打の人から褒められている者が
『お相手致しましよう』
といいあいせんで打ち始めました。年寄は村の者より五目余りも強そうに見えました。村人は
『貴方は上手にお打ちなさる』
と褒めて遂に六目勝ちました。それから老人とこもごも相手になり打つている間に、その日もいつしか暮れ果てました。
年寄は
『明日また参りましょう』
といつて家に戻りました、それから後は、毎日毎日そこへ遣つて来て日暮れては帰つて行きました。年寄はどこの人だか誰一人聞くものもなく、唯近辺の人だとのみ思い丁度一年を過しました。明くる年のこと一同寄り集まり今日年寄がまだ見えないが、定めし暇いりのあるのだろうと噂していました。
一人がいうよう
『あの年寄は何という者で、どこの人だろう』
誰一人知つている者がない。異口同音に
『どこの人だろうか』
と今更のように不審がり
『年寄が見えれば、一度は宿をして下さいと頼んで、あの宅へ行つて見ようではないか』
といい出せば皆のものが口を揃え
『それこそ面白かろう』
といつているところへ噂すれば影さすとやら、いつもの通り年寄がとぼとぼ向うからやつて来ました。皆の者が年寄に
『あなたは久しい間碁会へお出になりますが、一度おうちで宿をして下さい、私等うち揃うて参りましよう』
老人喜びの色を満面に漂え
『自分はいつから宿をしようと思つていた矢先き、もつけの幸いで御座る。然らば用意も致し明後日改めてお迎えにまいりましよう。皆々必ず御出で下さい』
といつて堅く約束し、碁も終つてから帰りました。その跡で一同のもの
『年寄が宿をするというこそ面白い』
と迎えに来る日遅しと待ちこがれていました。日の立つは早いもの一日千秋の思いをさせたその日になると、朝早く年寄が迎えに来て村の者八人の一行を打ち伴れ、先に立つて黒部の水上を辿りゆきますと、大きな滝が切り立つて崖の上から真直に白布を掛けたように落ちていました。年寄はそこに杖を停め
『この滝の中に人の知らない近道があります。一緒に滝壺の中へ飛び込んで下さい』
といいました。皆の者顔を見合わせ不思議に思いましたが、
いうがままに滝壺の中に飛びこみました。その中は洞になつて立派な大道があります。いずれもいよいよ不思議に思いながら十余町を進みますと、今度は広々として果しも見えない野原に出ました。この原を四五町なおも行きますと真向うに大きな黒い門が見えました。年寄は
『あれに見えるは自分の住家です』
と間もなく門を潜ると、正面に大きな式台があります。大勢鏡板に座わり
『遠方ようこその御出で』
と迎えに出で八人の者を座敷に通しました。間の様子を見渡すと、その綺麗なこと床には唐絵極彩色の三幅対を懸け流し、卓、香炉、床飾、残る隅なく飾り立てて、庭には築山、泉水、滝から蓬莱山、拝台石、守護石、飛石の配りもよく上手な園芸師が手を尽してこしらえた眺め見飽かない景色は、仙境に入つた心地にさせました。年寄が出て来て
『見苦しいはにゆうの小屋にようこそお出で下され誠に嬉しく、ゆつくり逗留してお遊び下さい』
と様々馳走して懇ろにもてなしました。
 翌る日になると、近所から好きな碁の相手とて上手な碁打ち三人来て交る交る打つ碁に一同面白く気を晴らし、それが済むと山海の珍味を調え酒宴を開いてもてなしました。八人の者喜ぶこと限りなく日の過ぎるを覚えません。年寄
『私に一人娘がいます、踊を習わせましたから、今夜は踊らせて御目にかけましよう。奥座敷へ御出で下さい』
といいました。黄昏(たそがれ)時から案内に伴れ一同奥に行きますと、燭台を配り十四五歳から十八歳になる綺麗な娘が居並んで三味線、胡弓、尺八を持ち出し調子をしらべ踊歌を初めると、向うから来るのは娘と見え年の頃二八余りの容顔殊に美しく艶な衣裳を着飾つて踊り出し、隨う大勢の娘共も思い思いの装束で拍子を揃え鳴り物に合わせて踊り、その目ざましいことは限りがないので、八人の者は現(うつつ)を脱かし胆(きも)を天外に飛ばしました。踊もだんだん代り天人踊、唐人踊、伊勢踊、ぜん太皷など数多く、終れは夜はほのぼのと明け渡る。年寄りが出で来て酒を進めました。一同娘の踊を褒め囃(はやし)いて挨拶しました。年寄は
『さて御退屈でありましたろう、まずまずお休み下さい』
といつて一間の寝床に案内させました。いずれも夜明け後まで夢を結びましたが、一人のものが目を醒まし
『さてさて不思議な所に来て四五日も逗留した。いざ帰りましよう』
といえば、一同俄かに帰郷の念沸き起り即時同意して起き出で、年寄に向い
『永々いろいろお手厚い御もてなしに預かつて有難い、最早お暇申しましょう』
年寄は
『折角のお出、せめてはもう二三日逗留して下さい』
といえば、何れも家内の者も待つていましよう、是非帰りたいと申しました。年寄、今は詮方(せんかた)なく
『然らばお心に任せましよう。しかし何か御馳走と存じ世に求め難い魚を今日購いました。これを手に入れるまでには随分心を砕きました。その魚を料理してお上げしましよう。唯今取り掛らせますから皆さん台所にいらつしやいましてどんな魚か御覧下さい』
といいました。何れも料理場に伴われその魚を見ると頭は人の形で丸く、目・耳・鼻・口あつて胴は鯛(たい)のようでありました。いずれも見慣れない魚だから名は何と申す魚ですと問えば「人魚です」
と答えました。皆々かかる珍しい魚を御求めの御礼申述べ難いと喜び元の座敷に戻りました。しかしいずれも初めて見た魚だから何となく恐れ慄きました。年寄は膳を運ばせ
『只今馳走します魚は至つて得がたく風味勝(すぐ)れ、之を食べますと長生します。緩(ゆつ)くり召し上つて下さい』
と挨拶しました。皆の者料理した魚を見ると刺身のように作つたもの、八人の者ども食べるように見せかけ懐紙を取り出しその魚を包み
『かような珍魚を独りで食べるのも惜しく、頂き帰つて家内のものに分けて食べさせましよう』
その他数々出た馳走のもてなしを受け
『さらばお暇しましよう』
と年寄に向い
『この間中は身に余る御叮嚀なおもてなしに預り御礼申しつくしがたい』
と厚く挨拶して立ち出れば、内の者は揃うて門の外まで見送り名残りを惜みました。年寄は
『自分は滝までお送り申しましよう』
と八人の先に立つて例の滝まで案内し
『これから外へ飛び出して下さい』
と挨拶して立ち別れました。皆々教えられた通り滝から飛び出し川縁に至つて、くだんの紙に包んだ魚を川に捨て
『さても不思議な所にいつて遊び面白く気を慰めた』
と話し合い銘々家にかえりました。家内の者ども胆を潰し死んだものが甦つた心地して一同を出迎え
『今までどこに居られましたか、八人づれで出られた日から今年で三年になります』
といえば、皆々顔を見合わせてびつくり仰天しました。紙に包んだ魚を捨てずに一人だけ持つて来ましたが、何心なく取り出したのを傍にいた今年十歳になる娘が土産と心得独りで食べてしまいました。日を経て八人の者が老人につれられて行つた滝を尋ねましたがさらに見当りません。ここぞと思う道もなく如何なる所であつたろうと、又々胆をつぶしました。それから後は年寄も来ず不思議の物語となりました。しかしかの魚を食べた娘が成長して他へ縁付きましたが、年をとつても老(おい)もせず長生して三百歳の寿命を保つたと伝えます。

六 黒部峡谷の秘密

 名にし負う日本北アルプスの黒部峡谷は、人も知る立山山脈と飛騨山系に挟まれ千古の秘密を蔵めて人跡未踏の地を存し、天下屈指の大峡谷であります。本県中新川・下新川両郡を縦断し、黒部川は飛信越の国境に位する鷲羽か嶽から発源し、天を摩する山毛欅(ぶな)や唐松や白樺の鬱蒼たる大山林の下を急転直下の勢を以て、二十里の間深く谷を抉(えぐ)つて流れ、花崗岩や片麻岩から成る高い山や険しい峰々が聳え立ち、断崖何千尺あるか分らない。奔馬のような急湍は白雪を飛ばし、山脚を洗い更に水中の怪巌奇石に突き当つて玉と散り余勢は一大飛沫となり、岩上の青松に映る原始的の大峡谷は日本三奇橋の誉も高い愛本橋に至り、始めて広い平野に向い、山容水態の豪宕清艶(ごうとうせいえん)は真に天下の仙峡と称えます。
 昔の人々はこの大峡谷を如何に観察しましたろうか、試みに旧記を辿ると
『千山万嶽重畳として危険な恐ろしい谷だから、行くことが出来ない。唯木を伐る樵(きこり)が奥深く入る。併し道という路がないので黒部の川縁に沿い、断崖絶壁の上を攀(よ)ずるに、脚下数百仭目眩み、脚戦(おのの)き、細道ひろうて進み川には大木を切つて橋とし渡らねばならん。信州へ出る間道がある。峡谷の入口たる内山村から先きは人里がない。山奥が遠いので詳しいことは分からないが、山中には杉、檜(ひのき)、槇など多い。しかしそれを伐り出すことが出来ないのは惜しいことだ。山深い地に赤牛か嶽といつて朱のような真赤な山や、又半里四方もある明礬(みょうばん)山や水晶を産する山もある。その他半里余も長さ六七尺余りの葱(ねぎ)が茅原のようになつて成長し、一里余り一尺回りの竹や色々の薬草が生え茂つている』
と奇々怪々な事を書き列(つら)ねてあります。
 探検にはまだ指を染めない幽谷も開けゆく御世の光に照らされまして、山林は黒部国有林の大団地として無尽蔵の良材を出し、いたるところ黒部・祖母谷・鐘釣・黒薙・二見・宇奈月の霊泉湧き出て、夏季この温泉に入浴して病を治し俗塵を洗うものや、近年山岳跋渉の熱高くこの難険の谷を越えて山路を踏み分け、北アルプスの霊峯、立山や大蓮華山の絶頂に登る健脚の探検家も年を逐うて多く、他に発電、採礦、石材など自然の恵みを開拓しようとするものは数え切れません。
 大正七年の夏遠く木管を以て二見温泉を引いて愛本温泉を開湯して浴客の便を図り、陸軍歩兵学校の催しに係る飛行射撃最初の試みに全国に稀な好適地として一層その名が世間に知られるようになりました。同十一年日本電力会社の発電事業の経営及び附帯事業として愛本温泉を買収して宇奈月温泉を起し、黒部鉄道を通じて黒部峡谷の開発事業に努力して広く天下に紹介いています。この峡谷に古来どのような伝説が包まれていましたろうか、これから物語ることと致します。

五 名物愛本の粽(ちまき)

 日本北アルプスの谷間を流れる越中黒部の水が愛本に来て始めて扇の様に拡がる平原に頭を出し、老樹古木覆い被る両岸断崖絶壁の相対する岩脚に衝突し、碧潭(へきたん)渦を巻いて物凄くその上に一本の支柱なく『アーチ』形を誇るは日本三奇橋で名高い愛本橋であります。橋下幾十丈、試みに一升樽に水を入れその口から水をあけると、滔々一筋の紐となつて落ち樽の水のつきてなくなる頃漸く水面に落ち初めるといい伝え、古来幾千年ここの水はあせたことはありません。
 昔この橋の袂に徳左衛門という一軒の茶屋があつて旅人に渋茶一服、一ぜん飯など出いてその日を送つていました。この徳左衛門にお光という一人の可愛い娘がいましたが、谷間に生える白百合の色香深からねど、綻び初めた十八歳の優しい綺麗な姿、朝は川霧の冷たい中に起きて雨戸をあけ、店先の掃除、掃除が終ると村の娘達と一緒に声郎かに歌を口ずさみながら日々岩根をよぢて薪を採るに余念なく、常に老いたる両親を喜ばせました。近郷近在に孝行娘の名も高く、近間の若者達は勿論遠い庄屋や肝煎(きもいり)の一人息子からも縁を求める者も数多くありました。
 ある晩親子三人打ち寄つて世間話をしていますとトントンと戸をたたく者がありますから、戸外へ出て見ると誰もいません。この様な変なことが三晩もつづきました。翌る朝両親は早く起きて仕事にかかり日も随分高く上つたのに、いつも早起きのお光は一向起き出た気配もありません。不思議に思つてお光の寝床をのぞいて見ると、寝ている筈のお光の姿が見えません。変なことがあるものと思つて、近所隣の心易い所を片端から尋ね回りましたが一向判らないので、さては誰かにかどわかされたに相違ないと、数日間というものは気が気でありません、徳左衛門夫婦は血眼になってそこここと探しましたが、さらに手懸りはありませんので、今は根気負けして亡きものとあきらめるより外はありませんでした。かくてその年は去り、次の年も夢のように過ぎて、次の年の盂蘭盆(うらぼん)が訪ずれました。徳左衛門の家では、十三日の晩可愛い娘の三年忌に当り、ありし日の過ぎさつた事ども思い続けて、今更のように老の目をうるおしていました。もう戸締を済まして休もうとしていますと、庭先に軽い足音がして、トントンと戸を叩く音があります。耳をそばだてると『お母アさんお母アさん』と呼ぶ声がするので、なんとなく聞き覚えのある声ゆえ、母は驚いて愛着の念片時も忘れ得ない娘の声なのに駆け出て、あわただしく戸を明けると紛う方ない生みのお光が笹の粽(ちまき)を土産に持ち帰りました。夢かとばかり抱き入れ、夫婦喜んで労りもてなし、かつ越し方のありし事ども語り聞かせよといいましたが、お光ははずかしがる様態で少しも口にしませんでした。かくて翌日お光は母に向つて
『どうぞぬるみ湯を桶に入れて次の納戸(なんど)へ運んで下さい。私は産気づいたのでそこで身二つになろうと思います。しかし一生のお願い、産所へは必ず立ち入り下さるな』
といつて納戸に入り、戸をしかと締めました。見るなと念を押されたもののいよいよ見たいのは自然の人情、殊に年来忘れる暇もなかつた自分の娘の初産(ういざん)が気にかかり、また可愛いい初孫を見ることと思えば嬉しさ堪え兼ね、お光の固い嘆願をも打ち忘れそつと障子の隙間から納戸の内を覗きました。こわそもいかに、世にも類ないと謡われた美しい娘はいつしか蛇体と変わりいますので、思わずびつくりして声をあげて泣きさけびました。・・・・・・
 お光は忽ちもとの姿にたちかえり、何度より出で来て無念の涙せきあえず
『かほどまで私の願いを反故(ほご)にされました上は、親子の縁はこれ限り、別れのかたみに申し残して置きます。土産に持ち参りました粽は幾年たつても腐ることのない珍しい品であります。日に日に老い行かれる御両親は助ける者なくてはお困りでしよう。この粽で今世を安く送り下さい』
といつて精しくそのつくり方を伝授し、最早この家にいることは出来ません、これにてお暇申し上げますと外へ出たので、徳左衛門夫婦あわてふためき
『やよ娘・・・・・・何とてかくは急くぞ・・・・・・暫し止まれ・・・・・・。まだ初孫(ういまご)の顔も見ないのに・・・・・・』
と追い縋ろうとすれば、お光の足はいと早く、雲を霞と忽ち愛本橋の岸に至り、あなやと見る間に大蛇と化身し、すらすらと水底深く姿を隠しました。
 この伝説に基づいた笹の粽は、今日も愛本橋の畔、下立(おりたて)の茶屋で売り出され、この地の名物として世間に知れ渡つています。
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