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四 うるし千ばい朱千ばい

 富山市郊外呉羽山の裾野とも申します婦負郡長岡村、今の長岡御廟の隣地旧共同墓地西南の隅に長者屋敷というところがありまして、昔から里謡を永く伝えました。
『うるし千ばい朱千ばい黄金(こがね)の鶏(とり)が一番(ひとつがい)朝日輝く夕日さすみつはうつぎの下にある』
 今から百年以前、ここを、長者が子孫に譲る宝をうずめてある『朝日輝く夕日さす三つはうつ木の下』だと手前勝手な解釈をして、ある日のこと里人集会の折に、たまたまこの里謡の話がわき出て、そこを掘ればきつとよい宝が出るに相違ないと一人がいい出しますと、慾に目のない連中は異口同音に賛成しまして発掘の話が立どころに一決しました。
 翌る朝大勢の若者がてんでに鍬をかついで長者屋敷に来て一生懸命に土をほりかえしますと、駒引銭(こまびきせん)が少々出ました。これに力を得て、さらに勇を振るい汗水ながして今度こそは黄金の鶏一番(ひとつがい)ほり上げようと、あせれどあせれどあとは何一つ出ません、所謂『骨折り損のくたびれもうけ』という大滑稽を演じたそうです。
 因みに申します、出ないのがあたり前で、考古学者の説によりますと、昔貴人の死んだ当時後世の木遣節のような歌を謡うたもので、その歌が年久しく伝つたものだそうです。

三 牛が首相撲のおこり

 むかし婦負郡針原村に国勝長狭の後胤と称える貞治古(てじこ)というものの二男村治古が家を構えて住み、子孫相つぎ農を業としましたが、その家に二人の兄弟がいました。
 ある日のこと二人共野良に出て耕作の真最中、かちんかちんと鍬先に音がしますので、不思議におもいなおも深く地を掘り下げますと、一箇の石のように堅い牛の首が出ました。何か由緒のあるものだろうと年寄の人達にといただしますと、
『この地方は元長沢各願寺の開基仏性聖人の寺領内で、その頃、聖人が大切に保存しておられた瑠璃(るり)の牛頭(ごず)を、宮をこさえて安置し、三位長者松森讃岐守をして朝夕奉仕させ、里人のために田地の水不足をさせないよう、五穀の豊穣するよう祈らせられたが、その後兵火に罹り亡くなつた瑠璃の牛頭だろう』
と聞かされました。
 その来歴を知つた二人は大いに喜び、祭壇に奉安して秘蔵し、春秋之を祀つて祈願をこめ兄弟心を協せ一生懸命稼いで、広く田地を開き水を引いて稲を養いましたが、霊験著しく五穀豊熟して次第に家富み栄えました。
 その後弟は新川郡猪俣(いのまた)村後世の新名村にいます叔父の養子となりました。ある日兄に向い
『牛頭は二人して掘出したのだから自分の家に遷し祀つて御利生を得たい』
といい出しました。しかしこの議に兄が承知しないので一時は争いがおつぱじまりました。日を経て兄のいうには
『さあらば相撲を取り勝つた方に蔵めることとしたらどうか』
弟はよろこんで即座に承諾し、それから毎年相撲を取り勝つた方におさめて来ました。その後弟が三年続いて負け永い貧苦に陥りました。兄はそれを可愛想に思い
『今年は御前の方に奉遷する番だ』
といつて弟の方へ遷しました。これから兄弟は一年おき互に蔵めましたが、後に兄の田地に神社を建立し、牛頭を鎮座し掘出した秋の八月十六日を記念して、祭日と定め兄弟各召仕の下男を出して相撲を取らせ五穀豊穣を祈りました。そのお宮が今の百塚村古神明宮の前身であります。
 寛文十年婦負郡の大動脈たる牛が首用水、一名四万石用水が開鑿(かいさく)されまして、牛が首宮の祭日と同じ八月十六日に起工しました。当時用水の灌漑区域の各村が守護神として、このお宮を祀りましたその祭礼にこの伝説が結びついてながく廃れていた相撲が再興され、元禄年間富山城主前田正甫(まさとし)公の奨励に芽生え相撲益々盛んになり、遂に越中大関争いの中心地となつて、この相撲で覇を握つたものは越中に於ける相撲親方となつて非常な権威を保ち、江戸相撲が地方興行をするには、是非これら親方の手を潜らねばならないことになりました。明治維新後になつて祭日は一月後の九月十六日が例祭となり、今なお祭日の余興に法楽相撲を厳かに催して、昔を偲ばせ神霊を慰めています。

二 六治古の話

 富山市から西南呉羽山に沿うて南へ南へと行きますこと三里、婦負郡古里村長沢という片田舎があります。西方に聳(そび)えて背景を彩る一帯の丘陵を長沢山といいます。もとは単に越路の山と称えたものですが後世になつて篠山または天児山(あまこやま)と唱えました。大昔この山の麓に貞治古(てじこ)という一人の翁がいましたが国勝長狭(くにかつながさ)の血を分けました神胤だと伝えます。この翁に六治古・村治古・貞治古・羽根治古という四人の男子がありました。兄弟心を一にし力を協せ汗とあぶらで荒野を開墾し田畑をこしらえ、穀物野菜を作り家業にはげみました、年を経て弟三人は別居し、子孫繁殖して沢野(長沢地方)を中心として倉野(笹倉地方)・野敷野(安田、金屋地方)の四部落を生み、鶏犬の声が連るようになり、その間の交通を便ずる道路を「ながそ」(長沢)といいました。
総兄である六治古は性質素朴で心やさしく農事に励み、常に真心を捧げて母に仕えたので、郷民はその孝行を褒めたたえました。ある日のこと、六治古は我が家計ゆたかでないので、たつたひとりの母を養うも心のままにならなかつたが、幸い今年は五穀の収得例年よりも多いから魚と交易して母の膳に供えようと急いで市に出ました。折しも二三日前のしけで魚が見当たりませんでしたが、幸にも生きた一尾の鮭がありましたので、直ぐこれを買い求め藁苞(わらつと)とし喜び勇んで帰路につきました。頃は師走の十二月、銀雪積る道のはかゆかず、暮に下須川のほとりを通り、暫く川傍の木蔭に腰を下して休み、もつた魚があがっていないかを試そうと苞を解いて見ると少しも動かないので、哀憐の心が湧き苞のままで水に浸しました。暫くして鮭は鰓(えら)を動かし水を呑むと見る間もなく鰭(かれ)をふり立てて波に入つて失せました。六治古はあわてて捕えようとしましたが、影も見えないので詮方なく茫然として力なげに家に戻り、つぶさにそのよしを母に告げました。母は其方(そなた)の孝心は魚を食べるよりも勝つて嬉しく必ず心配しないようにと、いつもより快げな様子なので、六治古はやつと胸を撫でおろしました。
 歳も次第に暮れるので、来る春の用意にと六治古は隣村へゆき母がひとり留守していますと、二八ばかりの花のような乙女が戸を叩き一夜の宿を乞いました。母が怪んでいずこのお方ですかと問いますと、乙女は
『私はここから五六里先きのものですが、降り頻(しき)る雪に路を迷い日を暮しました。何卒一夜を明かさせて下さい』
 とうち萎れて頼み、雪にまみれてしよぼ濡れた有様はまことに哀れでありました。母は見るに堪えかね、さらば此方(こなた)へと、打ちつれ内に入れ柴火にあててもてなしました。程なく六治古も帰り来ましたから、母はその訳をこまごま物語るのを六治古が聞いて、ようこそお宿をなさつたといつたので、母も乙女も喜んでその夜を明かしました。明日にもなりましたが、乙女は帰る気色さらになく、母に代つて機転よく朝げ夕げの営みから数々心を使い母の起居を問いました。六治古も母も諸共に嬉しく思い、乙女の帰るを問うたこともありません。かくてめでたく初春を迎え、三人共に祝うて四方山話の末乙女は母に向い
『私は一夜の宿をお頼みしましてから今日まで帰る心の起りませんのは、私の里に父母もおいでにならず、兄の世話になつていますが、嫂(あによめ)が私をうとんで蔭の噂もわるいので兄人とても情なく、かような訳でとうから外出(そとで)をしていました。今また家に帰るのもかなしく、どうぞ母人のお情けにより下女とも召使ともしてお使い下さい』
と、ひたすら頼み入りました。母は熟々(つくづく)その話を聞いて
『それはこなたよりお尋ねしたいと思つていましたことで、不思議の因縁を以て宿をいたし、一日二日のそのうちに千歳もなれた心地がします。今帰られると、さぞ名残の惜まれることであろう。古里にまたれるお身でもなければ心委せに留つて下さい』
と、いと懇ろに話しました。乙女は嬉しく思つて心も落ち付き春五日も過ぎましたので機織る業に精出して、人の十日は一日にはかゆくことのたぐいなく、よく老母に敬い仕えること六治古の孝心も及びがたく、かつ三人の弟にも心をつくし、極めて親切であつたので、彼等もかかる人を妻(めあ)わせたく思いました。もともと老母は六治古の三十歳にもなるのにいまだ定つた妻もないので、老の心やるせなく乙女にむかい
『世に思うことのままならば、あなたを六治古の妻として二人の中を見るのなら、露の命の夕日に消えるとも何か惜しかろう、侘しい住居も厭わずに六治古の妻となり私をあわれんで下さい』
といいました。乙女は顔を赤らめさしうつむいて暫し返答もなかつたが、ややあつて顔を上げ
『御身の情けは私の身の面目なのでいなみ申しませんが、六治古様の思し召し、御兄弟方の御意見も確かめた上で何とかお答え申し上げましよう』
と答えました。母は重ねて
『かれこれ御気遣いしなさるな、今いつたことをよく聞いて、どうか御承諾して下さい』
といつて、六治古や弟共へそのよしを語りました。いずれも母人の御心にさえ適いますればよいようにはからい下さいと異口同音にいいました。母は喜んで軈(やが)て黄道吉日を選び結婚の式を挙げました。
 程なく六治古の妻はただならぬ身になり、すでに十月を経て玉のような男の子を生み、瑞雲一家に棚引いて庭の松の緑はいよいよ濃やかでありました。この児、成人の後は天児(あまご)六郎忠清と名乗りました。ある日妻つくづく思いますには、従来の耕作地では取得も少ないから、広く新田を開いて稲を植えようと嚢(ふくろ)の中から多くの布を取り出し、夫六治古に向つて
『これで農具や牛馬にとりかえ下さい、馬は幣川に行けば売人が待つています』
と告げたので、六治古は早速その言葉に従い、幣川のほとりに参りますと、老翁が白馬をひいて来て六治古を招き
『馬を求めるなら売りましよう』
といいました。六治古、翁に近寄り
『どうぞ布に易えて下さい』
と、数反の布を授け馬をうけとつて帰ろうとしますと、翁は
『この川に蛇がいて人馬の足を噛み毒あつてすぐ死んでしまう。これをさけるにはこの蛇は薬を嫌う故、これを以て履を織り足に穿いて渡らばその患がない』
と教えました。六治古その厚意を感謝し教え通りにして難なく家に帰りました。
それから六治古の妻は多くの人を傭(やと)うて界隈の野原を開拓し、西山に行つて水を引き入れ新しい田に灌ぎ稲を植え怠らず農業に精を出しましたので、五穀穣々(ごこくじょうじょう)として秋成り多くなり、年を重ねて六治古一家の富裕は近郷に方を比べる者なく、一層心を老母の孝養につくして何一つ不自由なくしました。長男が七歳の頃老母ふと病に罹り、ついにははかなくこの世を逝りました。六治古夫婦の悲嘆やるせなく、泣く泣く野辺のおくりをすましました。
 ある日のことでありました。妻は六治古に向い
『私は竜女であります。竜王があなたの孝行に感じ私に申し付け母上の孝養を助けさせられました。今から元の棲家に帰ります。六郎がもし私を慕えば山中に来て新しい池を探して下さい。そこが私の帰ります所です。再び相見ることもありましよう』
といい終る一刹那空を凌いで走りました。時に雷雨が起り晦冥咫尺(かいめいしせき)を弁じません。六治古親子は声をあげて泣き叫び留めようとしましたが、何分にわかのことなので、どうとも出来ず、六郎の母を慕う情が切なるため、竜女の言葉に随い池を
尋ねてその淵に臨みますと、母の形影が彷彿として水面を走り過ぎました。今にここを称して走影(はしりかげ)の池といつて居ります。六郎壮年になつて武勇絶倫、滝山の険によつて城を築き姓を天児と称し、威を北陸に輝かしました。六治古の弟村治古は針原村に住み、貞治古は小沼という所にあつて馬術に長じ且(かつ)馬のよしあしを見分けましたので、諸方から多くの馬を曳いて鑑定を乞いましたゆえ、遂に馬の売買も開始したから馬市といいました。後今市とゆう村名になり、中古まで馬市がつづいて開かれたそうです。
 また貞治古は高梨野に駿馬を得たのでその所を駒見村といい、羽根治古のいました羽根村の水田は、六七月の昇天になると水が涸れて稲が全て枯れようとした時、六治古の妻が竜骨車、俗に「べろ」とゆうものをつくり、水をあげてこれを救いました。これに因み羽根川を一に「べろ川」といつたと伝えます。

一 越中の初めを物語る神様たち

 舟倉山は上新川郡東南の一角を占めます。山系は蜿蜒(えんえん)南北に走り、峨々(がが)たる立山連嶺の天外に雪の峯頭を上げた雄々しい姿には、覚えず壮絶奇絶を叫ばさせます。遠い神代の昔この山に姉倉姫と申す女神がいらつしやいました。この女神は我々の住んでいる越中の国を一番初めにお守り下さいました方であります。おつれあいは伊須流伎比古(いするぎひこ)と申しまして、今の越中と能登の国境補益(ふえき)山においでになり、お二人の御仲睦じく互に心をあわせて国内の政治をおさばきになりました。
 お隣の能登国杣木(そまき)山に、能登姫と申す心根の良くない女神がいらつしやいました。比古をうまくだまして、自分が姉倉姫の領地をよこ取りしようとおそろしい悪企みをされました。
 悪事千里のたとえ、この事残らず姉倉姫の御耳に伝わり、早速使者を遣わし能登姫に真心こめてお諫めになりましたが意地の悪い能登姫は一向姉倉姫のお言葉に取り合わず、反つて伊須流伎比古を唆(そその)かしました。
 いかに心の優しい姉倉姫も堪忍袋の緒を切り、今はこれまでと、国のためにはこのままにしておく訳にはまいりません。そこでいよいよ能登姫征伐の軍を起すこととなり、国中の兵をお召しになつて専ら戦の用意をなさいました。
 この知らせが能登姫の方へとどきますと、すわ大変なり、一刻片時も油断が出来ないと、直ぐ様数多の軍兵をかり集め敵を防ぐ相談をされ警戒おさおさ怠りありません。こうなると国内がかなえのわくのように上を下への大騒ぎとなりました。
 やがて両軍は今の氷見郡宇波山に出あひ、敵味方入り乱れ火花を散らして戦ひ、追いつ追われつ一進一退、血は流れて河となり屍は積んで山をこしらえ、その惨状は目も当てられず修羅の場面を描いて勝敗いつ果てるか分りません。国中は真暗となり、いろいろの悪者どもが荒れ出して彼処(かしこ)にも此処(ここ)にも泣きさけぶ声が響き渡りました。
 天地の神々様はこのむごたらしい有様を見て痛く御心を悩まされ、死者を高天原にお遣わしになつて、委細を高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)に御注進なさいました。尊はおききになつて吃驚遊ばされ直ぐ出雲の大国主命に詔を下され『速かにあらそいを鎮めよ』と仰せつけられました。命は勅を奉じてすぐ出雲の御殿を御出ましになつて、波荒ぶる八重の潮路を乗り越えて越路にお降りになりました。
 まず越の神々様をお召しになつていろいろ軍議の末、五箇の日鉾を作らせ苧(からむし)で長さ八尺の和幣(にぎで)を五つの色に染めて一筋ずつ鉾に結び下げ、五行の備を立て姉倉姫の立て籠る舟倉山のお城をお攻めになりました。ところが山の頂にまわり七里もある大きな池があつて登ることが出来ません。そこで山を掘つて池水を切り開かれますと大巨流となり、水は北へ北へと流れ全く海へ落ちて仕舞ひ、楽にお城を占領なさいました。
 姉倉姫は命の御勇気におじおそれ、いつの間にか柿𣜤(かきひ)の宮へお逃げになりました。命はさらに軍を東に進めて宮を襲ひ、姫を生け捕りにし今の呉羽山の西麓小竹野に流し、この地で布を織つて貢物とし、また越中の女共に絲をつむぎ機を織る業を教え、その罪をあがなえと仰せ付けられました。
 これで姉倉姫の御処分が済みましたから、今度は戦争を起した大根元であるのと姫と伊須流伎比古を御征伐になりました。二人の神様は沢山の兵を寄せ集めて、初めは随分必死と刃向かいましたが、命の御威勢には到底かないません。今までの勇気はどこへやら、間もなく生け捕りのうき身に遇いました。命はその罪をお正しになつて、海辺に連れ出しお曝らしになりました。
 今では誰一人はむこう者がなくなりまして、国内元のように明るくなり、数多の悪者共も一目散に隊を崩して雲を霞と逃げ失せて姿を匿し、国人の歓ぶ声は天地をふるい動かし、ひたすら命の御手柄を誉めたたえました。
 命はこの度の戦に御味方申し上げました神々様の御手洗を一々おほめになりましてめでたく都へかえられました。命はかの八岐の大蛇を御退治になりました素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子に任(まし)まし、世に出雲の大社と崇めまするお宮は実にこの大国主命をおまつりしておるのであります。
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