富山市旧大沢野町舟倉

富山市旧大沢野町舟倉地区寺家と同市呉羽町小竹にはそれぞれ延喜式内社・姉倉比売(あねくらひめ、通称あねくらさん)神社が鎮座する。

昔、現富山市旧大沢野町舟倉地区にある舟倉山(今の猿倉山)に大国主命(おおくにぬしのみこと)の娘・姉倉比売命(あねくらひめのみこと)が住んでいた。夫は越中・能登国境の補益(ふえき)山に住む伊須流伎比古で、夫婦は毎晩行き来するほど仲が良く、心合わせて越中を治めていた。

しかし、能登の能登の仙木山に住む能登姫は越中が欲しくなり、伊須流伎比古に接近した。これを聞いた姉倉姫は能登姫に遣いを送ったが、聞き入れられず、ついに伊須流伎比古は能登姫になびいてしまった。怒った姉倉姫は舟倉山の石を仙木山に投げ始め、舟倉山の石が尽きると現立山町千垣の尖山に住む、仲が良かった布倉姫の軍をはじめ、国中の兵を集めて能登姫征伐軍を編成した。一方で能登姫も姉倉姫征伐軍を集めて防戦態勢をとった。

両軍の衝突は現氷見市宇波山で始まり、一進一退の攻防が繰り広げられたが、これを見た天地にいる神々は高天原(たかまがはら)に使者を送り、高皇産霊神(たかみむすびのみこと)に報告した。すると高皇産霊神は驚いて、出雲の大国主命に越の国の争いを鎮圧するよう命じた。

命を受けた大国主命はすぐ出雲を発って越路に入り、停戦を勧告したが聞き入れられなかったので、雄山の手刀王彦命、舟倉のおさ子姫といった越中の神々と軍議を行い、まず姉倉姫のいる舟倉山の城を攻めた。同山には猿倉城址があるが、これが姉倉姫に該当する人物の居城だったかどうかは定かではない。

同山は周囲に7里(約28km)の大池があり、難攻だったが、大国主命軍が山を掘ると池水は堰を切って大急流となり、流出した。驚いた姉倉姫は柿峻(かきひ)の宮に逃げたが、大国主命軍に襲撃されて生け捕りにされた。そして呉羽山麓の西・小竹野(おだけの)に流され、同地で越中の女に得意の糸紡ぎと機織を教えることで罪をあがなうよう命じられたので、布を織って貢物にした。これが八講布の始まりだという。八講布は小矢部市八講田に由来するとされるが、広く越中麻布の総称となっている。

姉倉姫が機織をする際、土器・石器などが出土する小竹貝塚(=蜆ヶ森貝塚)の上に鎮座する蜆の宮の蜆が蝶と化して群来し、姫が舟倉山に帰ることを許された時、姫に従って舟倉の御手洗の蜆になったといわれ、夏になると蜆が蝶と化して飛び回るともいわれている。呉羽の地名は「呉の機織」が「くれはとり」となり、最後に「呉羽」へ変化したとされる。呉とは呉服の呉である。

能登姫と伊須流伎比古の連合軍も大国主命軍に抗戦したが、捕らえられて海辺で処刑された。そして大国主命を助けた雄山の手刀王彦命と舟倉のおさ子姫は功績を称えられて現富山市月岡町壇山神社の月見ヶ池近くにあった月読社に祀られていたが、現在は鳥居しか残っていない。


姉倉姫はスサノオの姉・天照大神のことで、能登姫と戦ったというこの伝説は天照大神を奉じる高木一族が石川県羽咋市方面から攻め入った磯部氏と戦ったことを意味している。

富山市旧大沢野町坂本山王田割に鎮座する神明社もかつては姉倉姫神社で、舟倉の姉倉姫神社から約110年前に勧請されたものだが、祭神が姉倉姫と天照大神であることも偶然ではない。

富山市大沢野町笹津の姉倉姫神社の社伝曰く「古事記」「日本書紀」に紀元前30年頃、姉倉姫という姫が同地を拓いて人々に農耕と養蚕を教えたという記述があるとしているが、そのような記述は確認されていない。ただ、姉倉姫については応神天皇の時代に支那の呉の国から来た機織の一族の一人だという伝えがある。

八講布の由来となった小矢部市八講田の古名は偶然にも石動(いするぎ)だが、伊須流伎比古が住むのは小矢部市石動の地名の由来となった氷見市の石川県境にある石動山(せきどうざん)であり、同山には伊須流伎比古神社が鎮座する。そして姉倉姫の流刑地・富山市小竹にも式内社・姉倉姫神社が鎮座する。JR北陸本線呉羽駅付近だが、神社周辺の地名は高木、高木南、高木東、高木西などであり、舟倉から同地に流されたのは天照大神を祀る高木一族なのではないかと思われる。

石川県能登の気多大社には大国主命が同社(高家郷)から同県七尾市(高田町)まで遠征したことが伝わっているが、これは大国主命を祀る外宮度会一族が能登に侵攻したことを意味する。度会一族が加越能に遠征したことは外宮(三重県の伊勢神宮)の古文書にも載っているため、確実だろう。これらを総括すると伊須流伎比古は石動山にいた高木一族であり、能登姫は度会一族を意味していると思われる。

富山市呉羽の姉倉姫神社は度会氏の大若子(金沢御馬神社、博多櫛田神社、太宰府天満宮摂社の祭神)が10代崇神天皇の時代に訪れたともいわれている。大若子は度会氏の九州侵攻時も神社に祀られたため、度会氏侵攻の足跡を示す史跡という見方ができる。

大国主命に助力した手力男命は伊勢神宮内宮の祭神で、月読神は秦氏(飛騨の木地屋の祖でもあり、越中の豪族・神保氏の祖ともいわれている)が祀る神であり、秦氏は度会氏の祖ともいわれている。伊勢神宮外宮の前身・三重県多気郡多気町の佐那神社祭神も手力男命であり、同社の鎮座する地名・仁田は出雲の仁多郡と同じである。

また、銅鐸が出土している近隣の三疋田、四疋田は飛騨と同音である。これらを関連付けていくと姉倉姫伝説こそ崇神天皇の時代に飛騨第2の高天原・越中へ度会氏が侵攻したことを意味すると考えるのが妥当だろう。出雲の勢力は2世紀に大和を制圧後、間を空けずに高天原に攻め入ったと思われ、4世紀には九州の高木一族を制圧した。天照大神の御陵磐座がある岐阜県高山市一之宮町位山を源流とする宮川が高木神のいた高田神社付近を流れ、富山市大沢野町笹津を通り、同市高木へ行くのは偶然ではないだろう。尚、機織を伝えたという逸話は白滝姫伝説と混同されている。

ギリシャ神話を読んでいて気になる話があったので、ここで紹介しておこう。「アラクネ」は「姉倉」に似ているし、両者には機織や女同士の戦いという共通点がある。偶然なのだろうか。

昔、リュディアという地方にアラクネという娘が住んでいた。アラクネは機織が大好きで、とても上手だと評判の娘だった。仕事振りと出来栄えは、人間技とは思えないものだったので、

「もしかしてアラクネは、技術の神アテナ様から、機織の技術をじきじきに伝授されたのではないか?」

と、噂になるほどだった。しかし、噂を耳にしたアラクネは、激しく怒り、人々に、

「私の技術はアテナ様から教わったわけでは無いわ。それどころか、機織の腕前ではアテナ様なんかには負けないでしょうし・・・」

と、言った。アラクネの神をも恐れぬ暴言に人々は、

「その言葉を撤回して、一刻も早くアテナ様に懺悔なさい」

と、諭したが、アラクネは、

「本当のことを言って何が悪いの?」

と、聞かなかった。人々は、

「何事もなければよいが・・・」

と、半ば呆れながらもアラクネを心配していた。しかしある日、アラクネのことがアテナの耳に入ってしまった。当然、このような人間の思い上がりを女神として見過ごすわけにいかない。だが、慈悲深いアテナは彼女をすぐに罰することはせず、このアラクネの勘違いを悟らせるために人間界に降りた。まず、アテナは老婆に化け、アラクネに、

「お前は人間の分際で神々を侮辱する事が許されると思っているのかい?今なら間に合うから早くアテナ様に謝ってきなさい」

と、諭した。しかしアラクネは、聞く耳を持たず、

「今すぐ腕比べをしても良い。早くアテナをつれてくるが良い」

と、まで言い出した。これにはさすがのアテナも呆れ果て、女神の姿を表し、アラクネと機織の腕比べをすることになった。結果はどちらも甲乙付けがたく、アテナから見てもアラクネの技術は非の打ち所が無い素晴らしいものだったが、アラクネの織り上げる布にはゼウスが人間の娘達を誘惑している様子が描かれており、尚も神々を侮辱していた。アテナはこれに我慢できなくなり、アラクネの布を引き裂いて、手に持っていた杼(ひ、機織の道具)で、アラクネの頭を打ち叩いた。この時、やっと自分の犯した罪に気がつき、その恐ろしさに絶望したアラクネは自殺を図ってしまった。しかし、これを哀れに思ったアテナは、彼女の命を助け、彼女を蜘蛛に変えることでその罪を許した。こうして、助けられたアラクネは、今でも空中にぶら下がって、懸命に機織を続けているのだという。


アテナを大国主命、姉倉姫をアラクネと考えると、よく似ているように思われる。小竹野に流された姉倉姫と蜘蛛にされたアラクネ、結び付けるのはさすがに無理があるだろうか。

新潟県柏崎市高柳にある黒姫山(くろひめさん)に祀られる黒姫大神は罔象女命(ミズハメノミコト)という名で、越後を治めた大国主命の后だといわれている。「高柳町誌」によると、黒姫大神は西頚城郡一の宮村黒姫山鎮座の奴奈川姫命と同一であり、建御名方命(諏訪の大神)の御母である。昔、同地に殖民を図り、機織など土民に教えたので、後年、住民に機織の神として祀られるようになったという。以上の女神は名前をいくつも持っているようだが、「大国主命」「機織」などのワードから推測するに、姉倉姫もこの女神の一つの名なのではないだろうか。

参考として富山市月岡町と同市八尾町大長谷の月見ヶ池に伝わる伝説を以下に記す。

・昔、立山連峰の裾野に近い傾斜地がある富山市月岡は月岡野と呼ばれ、秋にはススキで覆われ、銀の穂波がサヤサヤと揺れる所だった。同地には壇の山(縄文中・後期の遺跡がある)という丘があり、桂の大木が根を張って葉を茂らせていた。この根元からは月の清水という清水が湧出して山の下に流れ、その水をたたえた池を村人は月見ヶ池と呼んでいた(壇の山から約700m越えた田の間にある小さな杉木立の中に月見ヶ池という池と鳥居があったとの記録もある)。それは曇った夜でも池に明らかな月影が映ることに由来した(曇天雨天でも満月の影が映るのは8月15日だけとも)。このことが月岡の地名の由来でもある。

ある満月の夜、空は黒雲で覆われていた。村の若者達は、

「こんな暗い夜さりに、ほんとに月が映るかどうか怪しいもんだげ。一つ試してみんまいか?」

ということになり、皆で池の畔に行きました。池は空と同じく暗く、何一つ見えなかった。

「何じゃいこりゃ、月が映るちゃ、いい加減なことやったがい」

と、失望した若者達が帰ろうとすると急に水面が輝き、丸い月が映っていた。

「ありゃ、月が映ったぞい!」

と、騒ぎ立てると池はまた暗く静まった。ある晩、村の女が汚れ物を抱えて来て、ゆらゆら月影の揺らぐ池で汚れ物を洗った。すると今まで静かだった水面が波立ち、美しく映っていた月は見えなくなり、暗闇の中に波の音のみが凄みを帯びて聞こえた。女は恐れて逃げ帰ったが、その夜から高熱にあえぐようになった。女のしたことが神の怒りに触れたのか、村の者達が祈りを捧げても月影は映らなくなったという。

安政5年(1858年)、常願寺川の大洪水でこの池もほとんど埋まって周囲約10mの小池になり、桂の大木以外の面影は失われ、今では月読社傍の小さな泉となっている。

・同市八尾町大長谷栃折に源頼光四天王の1人・卜部季武(うらべすえたけ)の子孫を称する岡田家がある。当主曰く、季武は近江(現滋賀県)から来たとされ、今も近江には一族が多いという。同村の段々田圃に映る月は美しいので村人は昔から月を愛した。今も旬会では絶好の場所として喜ばれ、満月・三日月問わずよく俳人の会が催されている。昔、同村から一望できる平原に月が美しく映る湖があった。月が無い夜でも暗い平野に同湖だけが淡く輝いて見えたので、村人の中にはいつしかこの湖に憧れて移住する者が多くなった。この湖は同市月岡の月見ヶ池で、昔、大彦命が道に迷った際、月光を照り返して救ったともいわれている。これにちなんで栃折村と月岡村の者は盆を迎えると互いに大火を焚いて8里(約32km)の岩根を越えて互いの無事を知らせ、喜び合う風習が長く行われていたという。近江出身の岡田家は木地屋の子孫ではないだろうか。


尖山で迷った人は岐阜県の位山に現れるという。

(参考資料)
越中伝説集・伝説とやま・富山の伝説(桂書房)・富山の伝説(角川書店)・越中旧事記