一〇 最勝寺の汗かき地蔵

 蜷(にな)川新左衛門親当(ちかもと)は老年になつて京都紫野大徳寺四十四世一休和尚の弟子となり、剃髪して智薀と号しました。一休和尚とともに、しばしば親当の本国越中蜷川庄へ巡錫したが、ついに同庄に一寺を建立し親当を開山としました。
 寺を建てるとき、敷地内のもと分れ道の角に建つていた石地蔵の位置が、竈(かまど)の傍になるから他へ移し立てようとしました。一休和尚はそのことを聞いて
『元のままにしておくがよい。今までは分れ道だつたから往来の人を済度したろうがこれからは寺の坊主がする。竈の傍だから何の役にもたたない、ぶち割つて菜漬の圧(お)せ石にするがよい』
そのおり地蔵はたらたらと満身に汗を流しました。大勢の者ども哀れに思い皆それを止めますと、一休は
『分れ道に立てば分れ道の役目がある、竈に立てば竈の役目がある』
といい、すぐ筆を取つて
『地蔵地蔵汗かき地蔵、竈の前の火消坊』
と地蔵の背中に墨くろぐろと書いて立て置かれました。
 あるとき、年歯(としは)の行かない子供が寺の炉へ這うて入つたのを助け上げ、また誤つて寺の庫裏(くり)から火が出かかつた折、夜中のこととて僧侶が寝ていて誰一人知つていなかつたが、地蔵は駆け回り人を呼び起し防いだので大事に至らなかつたと伝え、永くこの寺の宝物として崇(あが)められていました。
 今の上新川郡蜷川村曹洞宗の最勝寺はこの寺であります。
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