九 諏訪神社にまつわる話

 人皇第五十八代光孝天皇の御世、近江国伊吹山に鳬彦(かもひこ)とゆう兇賊おつて近国を押領(おうりょう)し、北陸地方にも彼の同類蔓(はびこ)つて民を苦めし騒擾を醸(かも)しました。天皇は御心を悩まさせられ、越前の住人甲賀三郎に悪徒退治の御言葉があり、援兵として越中宮川庄高柳の住人郷田次郎をそえられ、二人は勅命を奉じてまず伊吹山の賊を平らげ、続いて飛騨から越中に入り、連戦連勝破竹の勢で奸徒を全滅させました。
 凱旋の後越中は次郎の郷里なので暫く三郎を己が家にとめて饗応しました。ある日のこと三郎は只(ただ)一人馬に跨り渺茫(ひょうぼう)とした大原の野を通り、四辺の景色に見惚れつつ広い河原に出ました。頃は秋の末つ方、霜に染まつて燃える紅葉が錦をかざつています。駒を進めて楓の林中に入りひよつと片脇を見ますと大きな穴がある。不思議に思い駒をよせてその中を覘(のぞ)くと一人の綺麗な姫君がおられました。三郎は怪んで
『あなたは如何なる御方か』
姫君驚く気色もなく顔振り上げ
『妾はここに捨てられたもの、君もし情けあらば助け給え』
元来三郎は思い遣(や)りの深い人で姫君の言葉を聞いて哀れを催し同情の念堪え難く
『助け上げ参らせよう』
といい、鎧の総角(あげまき)を解いて穴の中へ下げると、姫君はかしこくそのあげまきにしかと縋り付き、三郎は難なく地上へ曳き上げました。三郎つくづく見れば歳は二八ばかりと覚えられ、容色殊に艶麗で凡人とは思われない。
『如何なる御方にて何の咎のましまして、かくつれなくもこの穴に棄てられ給うぞ、包みかくさず物語りたまへ、御両親の御許へ伴い、よきにお詫び申し上げましよう』
姫君は満面に喜面を湛え
『助けまします御事さえ浅からぬ次第なるに、いとど深い御情け何をつつみまいらせましよう。さりながら妾を害しようと、今にも人の来るならば、君のおんためあしくなり、我が身も如何なりゆこう、お話の間もありませんから、急ぎ一先ずここを立ち去つていずれへなりとも伴い給われ』
三郎はさらばと、直ぐ姫君を馬に抱き乗せ河原の表に出ました。すると姫君は
『御身妾を助け給うとき、あわてて母の形見として給つた銀の鏡を打ち忘れ来ました。何卒とり得させ給え』
と、三郎聞いて
『いと易いこと、暫らく待ち給え』
と馬を楓の木につなぎ、まさに駈(か)け行こうとした時、次郎は三郎の帰りの遅いのを心配してわざわざ尋ねに来ました。三郎はしかじかのことを語り一緒にいつて鏡を取ろうと、大穴の縁(ふち)に来て三郎あげまきのはしを握り、片端を次郎に持たせて穴の中に
下りました。次郎は姫君のあまりの美しいのに恋い慕う心むらむらと起り、奪い取つて妻にしようと思い、三郎あつては邪魔だと握るあげまきを放しますと、三郎は忽ち穴のどん底へおちて影さえみえないようになりました。次郎もつけの幸いと姫君の方へ走りゆき
『ただ今三郎あやまつて穴の中へ落ちて、影も形も見えず助けるすべもありません。この上は致し方ないから自宅の宅へお供しまいらせましよう』
と偽り、姫君を馬にのせ次郎の館へ伴い来ました。それから次郎は姫君の心を慰めようと千々(ちぢ)に心を砕いてもてなしましたが、憤然としてものをもいわれない。今は次郎も困りはてて、下人(げにん)に申し付け姫君を棄ててしまえと下知しました。
 下人姫君を抱き上げ馬に乗せようとしましたが、盤石よりもなお重く怒気満面に溢れてさもすさまじい。次郎いとも怖しく身の毛もよだつばかりで、走り逃げようとしましたが、全身すくみ一歩も動けない。今は詮方なく、姫君に向い
『何事も許し給え』
と只管(ひたすら)詫びました。姫君はすこし顔色を和らげ
『我は諏訪の神である。この地に跡をたれ、三郎に出逢い楓が原にて出顕した。しかるに汝が横暴に妨げられ、三郎は既に信州に去り、我独りここに留る、池水濁らば人も清(す)むまじ、我が誓いを無駄にするな』
と宣(たま)い忽ち姿は見えなくなりました。次郎初めて諏訪の神なるを知り、急ぎ詣でて拝謝せんと大穴を窺うと、清水が湧き澰灔(れんえん)たる池となりました。次郎低頭平身して只管(ひたすら)神に罪を謝しその池の畔に小祠をこさえ、神を勧請して諏訪大明神と崇め奉りました。三郎は穴のどん底に落ちたが、神の加護のいと渥(あつ)く地中に一道あり、路に沿うて辿り行つたこと一千百日、その間少しも腹の飢(う)えることなく、信州を経て遂に駿州江尻の松が根というところに出で、間もなく世を去りましたが、そこに神として祭られ、また珍しい遺愛の球斑杖も越法寺に蔵するといいます。
 諏訪の池はその深いこと幾尋だか分らず、夏の日の旱魃にも水少しも減(へ)らず、中に一尺余の魚多く、人万一捕え食べますと必ず気狂いまた癩(らい)病になりました。この池の主はいもりに似て腹赤く脊黒く四肢あり、丈(た)け一丈余、水上に顕れる時は胴より上を出し眼光凄まじく見るものを驚怖させました。また池の中から、夜更けて火玉ふき水面に燃え暫くして消えたと伝え、この祠後世頽廃して一時山王社地に移され、富山城主二世前田正甫公の治世時代、南部草寿(なんぶそうじゅ)社地跡に小祠をこしらえて祀り、昭和年中さらに再興せられて現今に至りました。
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