六 黒部峡谷の秘密

 名にし負う日本北アルプスの黒部峡谷は、人も知る立山山脈と飛騨山系に挟まれ千古の秘密を蔵めて人跡未踏の地を存し、天下屈指の大峡谷であります。本県中新川・下新川両郡を縦断し、黒部川は飛信越の国境に位する鷲羽か嶽から発源し、天を摩する山毛欅(ぶな)や唐松や白樺の鬱蒼たる大山林の下を急転直下の勢を以て、二十里の間深く谷を抉(えぐ)つて流れ、花崗岩や片麻岩から成る高い山や険しい峰々が聳え立ち、断崖何千尺あるか分らない。奔馬のような急湍は白雪を飛ばし、山脚を洗い更に水中の怪巌奇石に突き当つて玉と散り余勢は一大飛沫となり、岩上の青松に映る原始的の大峡谷は日本三奇橋の誉も高い愛本橋に至り、始めて広い平野に向い、山容水態の豪宕清艶(ごうとうせいえん)は真に天下の仙峡と称えます。
 昔の人々はこの大峡谷を如何に観察しましたろうか、試みに旧記を辿ると
『千山万嶽重畳として危険な恐ろしい谷だから、行くことが出来ない。唯木を伐る樵(きこり)が奥深く入る。併し道という路がないので黒部の川縁に沿い、断崖絶壁の上を攀(よ)ずるに、脚下数百仭目眩み、脚戦(おのの)き、細道ひろうて進み川には大木を切つて橋とし渡らねばならん。信州へ出る間道がある。峡谷の入口たる内山村から先きは人里がない。山奥が遠いので詳しいことは分からないが、山中には杉、檜(ひのき)、槇など多い。しかしそれを伐り出すことが出来ないのは惜しいことだ。山深い地に赤牛か嶽といつて朱のような真赤な山や、又半里四方もある明礬(みょうばん)山や水晶を産する山もある。その他半里余も長さ六七尺余りの葱(ねぎ)が茅原のようになつて成長し、一里余り一尺回りの竹や色々の薬草が生え茂つている』
と奇々怪々な事を書き列(つら)ねてあります。
 探検にはまだ指を染めない幽谷も開けゆく御世の光に照らされまして、山林は黒部国有林の大団地として無尽蔵の良材を出し、いたるところ黒部・祖母谷・鐘釣・黒薙・二見・宇奈月の霊泉湧き出て、夏季この温泉に入浴して病を治し俗塵を洗うものや、近年山岳跋渉の熱高くこの難険の谷を越えて山路を踏み分け、北アルプスの霊峯、立山や大蓮華山の絶頂に登る健脚の探検家も年を逐うて多く、他に発電、採礦、石材など自然の恵みを開拓しようとするものは数え切れません。
 大正七年の夏遠く木管を以て二見温泉を引いて愛本温泉を開湯して浴客の便を図り、陸軍歩兵学校の催しに係る飛行射撃最初の試みに全国に稀な好適地として一層その名が世間に知られるようになりました。同十一年日本電力会社の発電事業の経営及び附帯事業として愛本温泉を買収して宇奈月温泉を起し、黒部鉄道を通じて黒部峡谷の開発事業に努力して広く天下に紹介いています。この峡谷に古来どのような伝説が包まれていましたろうか、これから物語ることと致します。
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