三 牛が首相撲のおこり

 むかし婦負郡針原村に国勝長狭の後胤と称える貞治古(てじこ)というものの二男村治古が家を構えて住み、子孫相つぎ農を業としましたが、その家に二人の兄弟がいました。
 ある日のこと二人共野良に出て耕作の真最中、かちんかちんと鍬先に音がしますので、不思議におもいなおも深く地を掘り下げますと、一箇の石のように堅い牛の首が出ました。何か由緒のあるものだろうと年寄の人達にといただしますと、
『この地方は元長沢各願寺の開基仏性聖人の寺領内で、その頃、聖人が大切に保存しておられた瑠璃(るり)の牛頭(ごず)を、宮をこさえて安置し、三位長者松森讃岐守をして朝夕奉仕させ、里人のために田地の水不足をさせないよう、五穀の豊穣するよう祈らせられたが、その後兵火に罹り亡くなつた瑠璃の牛頭だろう』
と聞かされました。
 その来歴を知つた二人は大いに喜び、祭壇に奉安して秘蔵し、春秋之を祀つて祈願をこめ兄弟心を協せ一生懸命稼いで、広く田地を開き水を引いて稲を養いましたが、霊験著しく五穀豊熟して次第に家富み栄えました。
 その後弟は新川郡猪俣(いのまた)村後世の新名村にいます叔父の養子となりました。ある日兄に向い
『牛頭は二人して掘出したのだから自分の家に遷し祀つて御利生を得たい』
といい出しました。しかしこの議に兄が承知しないので一時は争いがおつぱじまりました。日を経て兄のいうには
『さあらば相撲を取り勝つた方に蔵めることとしたらどうか』
弟はよろこんで即座に承諾し、それから毎年相撲を取り勝つた方におさめて来ました。その後弟が三年続いて負け永い貧苦に陥りました。兄はそれを可愛想に思い
『今年は御前の方に奉遷する番だ』
といつて弟の方へ遷しました。これから兄弟は一年おき互に蔵めましたが、後に兄の田地に神社を建立し、牛頭を鎮座し掘出した秋の八月十六日を記念して、祭日と定め兄弟各召仕の下男を出して相撲を取らせ五穀豊穣を祈りました。そのお宮が今の百塚村古神明宮の前身であります。
 寛文十年婦負郡の大動脈たる牛が首用水、一名四万石用水が開鑿(かいさく)されまして、牛が首宮の祭日と同じ八月十六日に起工しました。当時用水の灌漑区域の各村が守護神として、このお宮を祀りましたその祭礼にこの伝説が結びついてながく廃れていた相撲が再興され、元禄年間富山城主前田正甫(まさとし)公の奨励に芽生え相撲益々盛んになり、遂に越中大関争いの中心地となつて、この相撲で覇を握つたものは越中に於ける相撲親方となつて非常な権威を保ち、江戸相撲が地方興行をするには、是非これら親方の手を潜らねばならないことになりました。明治維新後になつて祭日は一月後の九月十六日が例祭となり、今なお祭日の余興に法楽相撲を厳かに催して、昔を偲ばせ神霊を慰めています。
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