二 六治古の話

 富山市から西南呉羽山に沿うて南へ南へと行きますこと三里、婦負郡古里村長沢という片田舎があります。西方に聳(そび)えて背景を彩る一帯の丘陵を長沢山といいます。もとは単に越路の山と称えたものですが後世になつて篠山または天児山(あまこやま)と唱えました。大昔この山の麓に貞治古(てじこ)という一人の翁がいましたが国勝長狭(くにかつながさ)の血を分けました神胤だと伝えます。この翁に六治古・村治古・貞治古・羽根治古という四人の男子がありました。兄弟心を一にし力を協せ汗とあぶらで荒野を開墾し田畑をこしらえ、穀物野菜を作り家業にはげみました、年を経て弟三人は別居し、子孫繁殖して沢野(長沢地方)を中心として倉野(笹倉地方)・野敷野(安田、金屋地方)の四部落を生み、鶏犬の声が連るようになり、その間の交通を便ずる道路を「ながそ」(長沢)といいました。
総兄である六治古は性質素朴で心やさしく農事に励み、常に真心を捧げて母に仕えたので、郷民はその孝行を褒めたたえました。ある日のこと、六治古は我が家計ゆたかでないので、たつたひとりの母を養うも心のままにならなかつたが、幸い今年は五穀の収得例年よりも多いから魚と交易して母の膳に供えようと急いで市に出ました。折しも二三日前のしけで魚が見当たりませんでしたが、幸にも生きた一尾の鮭がありましたので、直ぐこれを買い求め藁苞(わらつと)とし喜び勇んで帰路につきました。頃は師走の十二月、銀雪積る道のはかゆかず、暮に下須川のほとりを通り、暫く川傍の木蔭に腰を下して休み、もつた魚があがっていないかを試そうと苞を解いて見ると少しも動かないので、哀憐の心が湧き苞のままで水に浸しました。暫くして鮭は鰓(えら)を動かし水を呑むと見る間もなく鰭(かれ)をふり立てて波に入つて失せました。六治古はあわてて捕えようとしましたが、影も見えないので詮方なく茫然として力なげに家に戻り、つぶさにそのよしを母に告げました。母は其方(そなた)の孝心は魚を食べるよりも勝つて嬉しく必ず心配しないようにと、いつもより快げな様子なので、六治古はやつと胸を撫でおろしました。
 歳も次第に暮れるので、来る春の用意にと六治古は隣村へゆき母がひとり留守していますと、二八ばかりの花のような乙女が戸を叩き一夜の宿を乞いました。母が怪んでいずこのお方ですかと問いますと、乙女は
『私はここから五六里先きのものですが、降り頻(しき)る雪に路を迷い日を暮しました。何卒一夜を明かさせて下さい』
 とうち萎れて頼み、雪にまみれてしよぼ濡れた有様はまことに哀れでありました。母は見るに堪えかね、さらば此方(こなた)へと、打ちつれ内に入れ柴火にあててもてなしました。程なく六治古も帰り来ましたから、母はその訳をこまごま物語るのを六治古が聞いて、ようこそお宿をなさつたといつたので、母も乙女も喜んでその夜を明かしました。明日にもなりましたが、乙女は帰る気色さらになく、母に代つて機転よく朝げ夕げの営みから数々心を使い母の起居を問いました。六治古も母も諸共に嬉しく思い、乙女の帰るを問うたこともありません。かくてめでたく初春を迎え、三人共に祝うて四方山話の末乙女は母に向い
『私は一夜の宿をお頼みしましてから今日まで帰る心の起りませんのは、私の里に父母もおいでにならず、兄の世話になつていますが、嫂(あによめ)が私をうとんで蔭の噂もわるいので兄人とても情なく、かような訳でとうから外出(そとで)をしていました。今また家に帰るのもかなしく、どうぞ母人のお情けにより下女とも召使ともしてお使い下さい』
と、ひたすら頼み入りました。母は熟々(つくづく)その話を聞いて
『それはこなたよりお尋ねしたいと思つていましたことで、不思議の因縁を以て宿をいたし、一日二日のそのうちに千歳もなれた心地がします。今帰られると、さぞ名残の惜まれることであろう。古里にまたれるお身でもなければ心委せに留つて下さい』
と、いと懇ろに話しました。乙女は嬉しく思つて心も落ち付き春五日も過ぎましたので機織る業に精出して、人の十日は一日にはかゆくことのたぐいなく、よく老母に敬い仕えること六治古の孝心も及びがたく、かつ三人の弟にも心をつくし、極めて親切であつたので、彼等もかかる人を妻(めあ)わせたく思いました。もともと老母は六治古の三十歳にもなるのにいまだ定つた妻もないので、老の心やるせなく乙女にむかい
『世に思うことのままならば、あなたを六治古の妻として二人の中を見るのなら、露の命の夕日に消えるとも何か惜しかろう、侘しい住居も厭わずに六治古の妻となり私をあわれんで下さい』
といいました。乙女は顔を赤らめさしうつむいて暫し返答もなかつたが、ややあつて顔を上げ
『御身の情けは私の身の面目なのでいなみ申しませんが、六治古様の思し召し、御兄弟方の御意見も確かめた上で何とかお答え申し上げましよう』
と答えました。母は重ねて
『かれこれ御気遣いしなさるな、今いつたことをよく聞いて、どうか御承諾して下さい』
といつて、六治古や弟共へそのよしを語りました。いずれも母人の御心にさえ適いますればよいようにはからい下さいと異口同音にいいました。母は喜んで軈(やが)て黄道吉日を選び結婚の式を挙げました。
 程なく六治古の妻はただならぬ身になり、すでに十月を経て玉のような男の子を生み、瑞雲一家に棚引いて庭の松の緑はいよいよ濃やかでありました。この児、成人の後は天児(あまご)六郎忠清と名乗りました。ある日妻つくづく思いますには、従来の耕作地では取得も少ないから、広く新田を開いて稲を植えようと嚢(ふくろ)の中から多くの布を取り出し、夫六治古に向つて
『これで農具や牛馬にとりかえ下さい、馬は幣川に行けば売人が待つています』
と告げたので、六治古は早速その言葉に従い、幣川のほとりに参りますと、老翁が白馬をひいて来て六治古を招き
『馬を求めるなら売りましよう』
といいました。六治古、翁に近寄り
『どうぞ布に易えて下さい』
と、数反の布を授け馬をうけとつて帰ろうとしますと、翁は
『この川に蛇がいて人馬の足を噛み毒あつてすぐ死んでしまう。これをさけるにはこの蛇は薬を嫌う故、これを以て履を織り足に穿いて渡らばその患がない』
と教えました。六治古その厚意を感謝し教え通りにして難なく家に帰りました。
それから六治古の妻は多くの人を傭(やと)うて界隈の野原を開拓し、西山に行つて水を引き入れ新しい田に灌ぎ稲を植え怠らず農業に精を出しましたので、五穀穣々(ごこくじょうじょう)として秋成り多くなり、年を重ねて六治古一家の富裕は近郷に方を比べる者なく、一層心を老母の孝養につくして何一つ不自由なくしました。長男が七歳の頃老母ふと病に罹り、ついにははかなくこの世を逝りました。六治古夫婦の悲嘆やるせなく、泣く泣く野辺のおくりをすましました。
 ある日のことでありました。妻は六治古に向い
『私は竜女であります。竜王があなたの孝行に感じ私に申し付け母上の孝養を助けさせられました。今から元の棲家に帰ります。六郎がもし私を慕えば山中に来て新しい池を探して下さい。そこが私の帰ります所です。再び相見ることもありましよう』
といい終る一刹那空を凌いで走りました。時に雷雨が起り晦冥咫尺(かいめいしせき)を弁じません。六治古親子は声をあげて泣き叫び留めようとしましたが、何分にわかのことなので、どうとも出来ず、六郎の母を慕う情が切なるため、竜女の言葉に随い池を
尋ねてその淵に臨みますと、母の形影が彷彿として水面を走り過ぎました。今にここを称して走影(はしりかげ)の池といつて居ります。六郎壮年になつて武勇絶倫、滝山の険によつて城を築き姓を天児と称し、威を北陸に輝かしました。六治古の弟村治古は針原村に住み、貞治古は小沼という所にあつて馬術に長じ且(かつ)馬のよしあしを見分けましたので、諸方から多くの馬を曳いて鑑定を乞いましたゆえ、遂に馬の売買も開始したから馬市といいました。後今市とゆう村名になり、中古まで馬市がつづいて開かれたそうです。
 また貞治古は高梨野に駿馬を得たのでその所を駒見村といい、羽根治古のいました羽根村の水田は、六七月の昇天になると水が涸れて稲が全て枯れようとした時、六治古の妻が竜骨車、俗に「べろ」とゆうものをつくり、水をあげてこれを救いました。これに因み羽根川を一に「べろ川」といつたと伝えます。
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