一二 1竜女孝子を助く

 婦負郡古里村長沢の山中にある、一つの小さい池を走影池(はしりかげのいけ)といいます。大昔此の地に六治古(ろくじこ)というものがありました。年のいかない時に父に別れ一生懸命働いて田畑を耕作し、母を大事にしたのでその親孝行は専ら世間の評判になつて誰一人褒(ほ)めない者はありません。年二十になりましたがまだ定まつた妻がいなかつたのです。
 ある日の暮れ方、二八あまりの綺麗な一人の娘が雪路を踏み迷い一夜の宿を乞いますと、母は之をあわれみ家に留めました。日を重ね六治古の妻になる縁談がまとまり婚礼をあげ、間もなく、妻は唯ならない身となつて玉のような一男児、六郎を産みました。
 袋の中から自分が紡ぎ織つた布を取り出し牛馬や農具に替え、自ら人夫を率いてそれと共に荒地を開墾し用水を掘り水を引いて数多の新田に灌ぎました。今の山田川がこれであります。かように働いたので、秋の実入(みいり)も多く、段々身代もゆたかになつて郷里に肩を比べるものなく立派な豪農に出世しました。
 六郎七歳の頃、一日妻は六治古に向い
『私はもともと竜女であります。御身の親孝行に感じ竜王私に君を助けさせられました。今から竜王の許へ帰ります』
と暇乞いし空に向つて昇ると見る刹那、空は俄かに墨を流して真闇となり、雷雨が烈しく耳をつんざました。親子は泣き叫んで追い、一つの池を見出し水中を覗きますと母の面影がありありと水面をはせ通いました。それにちなんで後世、この池を走影池(はしりかげのいけ)というようになりました。
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一二 辰年の伝説さまざま

 今昭和三年は辰が幅を利かす歳だから、辰に関する伝説を述べることとしました。古来越中各地に言い囃(はや)され、
自分も幼い頃寝物語に、年寄から聞かされた話も少なくはありません。今から考えると、昔は世の中開けず、理科的知識に乏しいので、烈しい旋風が海では水を、陸では土砂をまき上げて柱をたてたようになつて空へ昇る。所謂竜巻(たつまき)を見て全く竜が天に昇るものと信じました。なお日本海に沿うている海辺の漁師どもが富山湾へ漁に出て『辰の落し子』という長さ一、二寸から三、四寸位、首は馬に似て形は蛇のような小さい動物が折々網にかかるので、これを竜の子だといい、いよいよ伝説の竜の存在を確めました。
 仏法の伝来に伴い、妖僧が宗旨を拡める手段に使い、色々人事上の怪談をこれに絡みつけ、愚民を惑わしたものらしく、しかしその中には教訓を含んだものもあつて棄てられないものもあります。これから古い越中の人は如何に竜を取扱いましたか、古い本にかき残されたものを拾いあつめて、お正月の慰みに供しましよう。

一一 足洗川の橋地蔵

 昔富山市の太田口町が太田の保に出る町端で、里人など町へ入ると蓮照寺というお寺の前を流れる小川にて足を洗いましたので誰いうことなく足洗川といいました。
 その頃この川のほとりに悪い狐や狸がしばしば出て、人をだまし持つている魚などいろいろな食物をすり取つたりしたので、難儀したものが多くありました。
 一休和尚が越中蜷川庄最勝寺に巡錫の折、そのことを聞いて、板石に地蔵を刻み、橋として行き来の人々に踏ませられましたので漸くその事が止みました。
 かようの伝説を生んだ橋地蔵は富山市が南へ南へと拡がると共に町も南に進み、今は西中野町と小泉町の境界地の東側小川の上の小地蔵堂の橋板となつて通る人々に踏まれています。

一〇 最勝寺の汗かき地蔵

 蜷(にな)川新左衛門親当(ちかもと)は老年になつて京都紫野大徳寺四十四世一休和尚の弟子となり、剃髪して智薀と号しました。一休和尚とともに、しばしば親当の本国越中蜷川庄へ巡錫したが、ついに同庄に一寺を建立し親当を開山としました。
 寺を建てるとき、敷地内のもと分れ道の角に建つていた石地蔵の位置が、竈(かまど)の傍になるから他へ移し立てようとしました。一休和尚はそのことを聞いて
『元のままにしておくがよい。今までは分れ道だつたから往来の人を済度したろうがこれからは寺の坊主がする。竈の傍だから何の役にもたたない、ぶち割つて菜漬の圧(お)せ石にするがよい』
そのおり地蔵はたらたらと満身に汗を流しました。大勢の者ども哀れに思い皆それを止めますと、一休は
『分れ道に立てば分れ道の役目がある、竈に立てば竈の役目がある』
といい、すぐ筆を取つて
『地蔵地蔵汗かき地蔵、竈の前の火消坊』
と地蔵の背中に墨くろぐろと書いて立て置かれました。
 あるとき、年歯(としは)の行かない子供が寺の炉へ這うて入つたのを助け上げ、また誤つて寺の庫裏(くり)から火が出かかつた折、夜中のこととて僧侶が寝ていて誰一人知つていなかつたが、地蔵は駆け回り人を呼び起し防いだので大事に至らなかつたと伝え、永くこの寺の宝物として崇(あが)められていました。
 今の上新川郡蜷川村曹洞宗の最勝寺はこの寺であります。

九 諏訪神社にまつわる話

 人皇第五十八代光孝天皇の御世、近江国伊吹山に鳬彦(かもひこ)とゆう兇賊おつて近国を押領(おうりょう)し、北陸地方にも彼の同類蔓(はびこ)つて民を苦めし騒擾を醸(かも)しました。天皇は御心を悩まさせられ、越前の住人甲賀三郎に悪徒退治の御言葉があり、援兵として越中宮川庄高柳の住人郷田次郎をそえられ、二人は勅命を奉じてまず伊吹山の賊を平らげ、続いて飛騨から越中に入り、連戦連勝破竹の勢で奸徒を全滅させました。
 凱旋の後越中は次郎の郷里なので暫く三郎を己が家にとめて饗応しました。ある日のこと三郎は只(ただ)一人馬に跨り渺茫(ひょうぼう)とした大原の野を通り、四辺の景色に見惚れつつ広い河原に出ました。頃は秋の末つ方、霜に染まつて燃える紅葉が錦をかざつています。駒を進めて楓の林中に入りひよつと片脇を見ますと大きな穴がある。不思議に思い駒をよせてその中を覘(のぞ)くと一人の綺麗な姫君がおられました。三郎は怪んで
『あなたは如何なる御方か』
姫君驚く気色もなく顔振り上げ
『妾はここに捨てられたもの、君もし情けあらば助け給え』
元来三郎は思い遣(や)りの深い人で姫君の言葉を聞いて哀れを催し同情の念堪え難く
『助け上げ参らせよう』
といい、鎧の総角(あげまき)を解いて穴の中へ下げると、姫君はかしこくそのあげまきにしかと縋り付き、三郎は難なく地上へ曳き上げました。三郎つくづく見れば歳は二八ばかりと覚えられ、容色殊に艶麗で凡人とは思われない。
『如何なる御方にて何の咎のましまして、かくつれなくもこの穴に棄てられ給うぞ、包みかくさず物語りたまへ、御両親の御許へ伴い、よきにお詫び申し上げましよう』
姫君は満面に喜面を湛え
『助けまします御事さえ浅からぬ次第なるに、いとど深い御情け何をつつみまいらせましよう。さりながら妾を害しようと、今にも人の来るならば、君のおんためあしくなり、我が身も如何なりゆこう、お話の間もありませんから、急ぎ一先ずここを立ち去つていずれへなりとも伴い給われ』
三郎はさらばと、直ぐ姫君を馬に抱き乗せ河原の表に出ました。すると姫君は
『御身妾を助け給うとき、あわてて母の形見として給つた銀の鏡を打ち忘れ来ました。何卒とり得させ給え』
と、三郎聞いて
『いと易いこと、暫らく待ち給え』
と馬を楓の木につなぎ、まさに駈(か)け行こうとした時、次郎は三郎の帰りの遅いのを心配してわざわざ尋ねに来ました。三郎はしかじかのことを語り一緒にいつて鏡を取ろうと、大穴の縁(ふち)に来て三郎あげまきのはしを握り、片端を次郎に持たせて穴の中に
下りました。次郎は姫君のあまりの美しいのに恋い慕う心むらむらと起り、奪い取つて妻にしようと思い、三郎あつては邪魔だと握るあげまきを放しますと、三郎は忽ち穴のどん底へおちて影さえみえないようになりました。次郎もつけの幸いと姫君の方へ走りゆき
『ただ今三郎あやまつて穴の中へ落ちて、影も形も見えず助けるすべもありません。この上は致し方ないから自宅の宅へお供しまいらせましよう』
と偽り、姫君を馬にのせ次郎の館へ伴い来ました。それから次郎は姫君の心を慰めようと千々(ちぢ)に心を砕いてもてなしましたが、憤然としてものをもいわれない。今は次郎も困りはてて、下人(げにん)に申し付け姫君を棄ててしまえと下知しました。
 下人姫君を抱き上げ馬に乗せようとしましたが、盤石よりもなお重く怒気満面に溢れてさもすさまじい。次郎いとも怖しく身の毛もよだつばかりで、走り逃げようとしましたが、全身すくみ一歩も動けない。今は詮方なく、姫君に向い
『何事も許し給え』
と只管(ひたすら)詫びました。姫君はすこし顔色を和らげ
『我は諏訪の神である。この地に跡をたれ、三郎に出逢い楓が原にて出顕した。しかるに汝が横暴に妨げられ、三郎は既に信州に去り、我独りここに留る、池水濁らば人も清(す)むまじ、我が誓いを無駄にするな』
と宣(たま)い忽ち姿は見えなくなりました。次郎初めて諏訪の神なるを知り、急ぎ詣でて拝謝せんと大穴を窺うと、清水が湧き澰灔(れんえん)たる池となりました。次郎低頭平身して只管(ひたすら)神に罪を謝しその池の畔に小祠をこさえ、神を勧請して諏訪大明神と崇め奉りました。三郎は穴のどん底に落ちたが、神の加護のいと渥(あつ)く地中に一道あり、路に沿うて辿り行つたこと一千百日、その間少しも腹の飢(う)えることなく、信州を経て遂に駿州江尻の松が根というところに出で、間もなく世を去りましたが、そこに神として祭られ、また珍しい遺愛の球斑杖も越法寺に蔵するといいます。
 諏訪の池はその深いこと幾尋だか分らず、夏の日の旱魃にも水少しも減(へ)らず、中に一尺余の魚多く、人万一捕え食べますと必ず気狂いまた癩(らい)病になりました。この池の主はいもりに似て腹赤く脊黒く四肢あり、丈(た)け一丈余、水上に顕れる時は胴より上を出し眼光凄まじく見るものを驚怖させました。また池の中から、夜更けて火玉ふき水面に燃え暫くして消えたと伝え、この祠後世頽廃して一時山王社地に移され、富山城主二世前田正甫公の治世時代、南部草寿(なんぶそうじゅ)社地跡に小祠をこしらえて祀り、昭和年中さらに再興せられて現今に至りました。