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一二 2竜女の与えた竜梅水

 高岡たらい野という所に、名高い瑞竜寺の隠居庵の真興寺という禅宗のお寺がありました。このお寺へいつ頃からか二八余りの美目よい一人の娘が身に綺麗な衣装を着飾り、毎朝雨の降る日も、風の吹く日も怠らず参詣しました。寺の和尚さんが不思議に思い、ある日のこと娘に向い
『御身はどこからお参りなさる、毎朝かかさず御参詣神妙の至り』
とほめました。娘はうつむいて
『お恥しいことながら、おたずねだから包みかくさず申し上げましよう。私は元来人間ではございません。この裏の池に住む竜女でございます。現世、未来の苦みを助かりたく念願し毎日お参り致します。何卒血脈(けちみやく)をお授け下さるようお願いします』
和尚さんはこれを聞いて
『そわいと易い事、さらば明朝お参りの時にお授け申しましよう』
娘『こわ、ありがたい、日頃の念願成就』
と喜び勇んで明朝を約し縁に出で庭に下りたと見る間に忽ち三尺余りの蛇に化けていずくともなく影失せました。
 翌る朝、和尚さんは読経(どきよう)をすまし娘に対面してもんもんを唱え戒名をさずけ血脈を与えました。娘は随喜の涙を流いて押し頂き
『お礼のしるしにきれいな水を参らせましよう』
といい、そのまま姿が消え失せました。程なく寺の庭の中に浄水三尺余り湧き出て、そのほとりに俄かに一本の枝振りのよい梅の木がぬつくと生えましたから、竜梅水と名づけこの名水を村中の人達が樋(とい)を伏せて水を導き飲料水に供しました。
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一二 1竜女孝子を助く

 婦負郡古里村長沢の山中にある、一つの小さい池を走影池(はしりかげのいけ)といいます。大昔此の地に六治古(ろくじこ)というものがありました。年のいかない時に父に別れ一生懸命働いて田畑を耕作し、母を大事にしたのでその親孝行は専ら世間の評判になつて誰一人褒(ほ)めない者はありません。年二十になりましたがまだ定まつた妻がいなかつたのです。
 ある日の暮れ方、二八あまりの綺麗な一人の娘が雪路を踏み迷い一夜の宿を乞いますと、母は之をあわれみ家に留めました。日を重ね六治古の妻になる縁談がまとまり婚礼をあげ、間もなく、妻は唯ならない身となつて玉のような一男児、六郎を産みました。
 袋の中から自分が紡ぎ織つた布を取り出し牛馬や農具に替え、自ら人夫を率いてそれと共に荒地を開墾し用水を掘り水を引いて数多の新田に灌ぎました。今の山田川がこれであります。かように働いたので、秋の実入(みいり)も多く、段々身代もゆたかになつて郷里に肩を比べるものなく立派な豪農に出世しました。
 六郎七歳の頃、一日妻は六治古に向い
『私はもともと竜女であります。御身の親孝行に感じ竜王私に君を助けさせられました。今から竜王の許へ帰ります』
と暇乞いし空に向つて昇ると見る刹那、空は俄かに墨を流して真闇となり、雷雨が烈しく耳をつんざました。親子は泣き叫んで追い、一つの池を見出し水中を覗きますと母の面影がありありと水面をはせ通いました。それにちなんで後世、この池を走影池(はしりかげのいけ)というようになりました。

一二 辰年の伝説さまざま

 今昭和三年は辰が幅を利かす歳だから、辰に関する伝説を述べることとしました。古来越中各地に言い囃(はや)され、
自分も幼い頃寝物語に、年寄から聞かされた話も少なくはありません。今から考えると、昔は世の中開けず、理科的知識に乏しいので、烈しい旋風が海では水を、陸では土砂をまき上げて柱をたてたようになつて空へ昇る。所謂竜巻(たつまき)を見て全く竜が天に昇るものと信じました。なお日本海に沿うている海辺の漁師どもが富山湾へ漁に出て『辰の落し子』という長さ一、二寸から三、四寸位、首は馬に似て形は蛇のような小さい動物が折々網にかかるので、これを竜の子だといい、いよいよ伝説の竜の存在を確めました。
 仏法の伝来に伴い、妖僧が宗旨を拡める手段に使い、色々人事上の怪談をこれに絡みつけ、愚民を惑わしたものらしく、しかしその中には教訓を含んだものもあつて棄てられないものもあります。これから古い越中の人は如何に竜を取扱いましたか、古い本にかき残されたものを拾いあつめて、お正月の慰みに供しましよう。

一一 足洗川の橋地蔵

 昔富山市の太田口町が太田の保に出る町端で、里人など町へ入ると蓮照寺というお寺の前を流れる小川にて足を洗いましたので誰いうことなく足洗川といいました。
 その頃この川のほとりに悪い狐や狸がしばしば出て、人をだまし持つている魚などいろいろな食物をすり取つたりしたので、難儀したものが多くありました。
 一休和尚が越中蜷川庄最勝寺に巡錫の折、そのことを聞いて、板石に地蔵を刻み、橋として行き来の人々に踏ませられましたので漸くその事が止みました。
 かようの伝説を生んだ橋地蔵は富山市が南へ南へと拡がると共に町も南に進み、今は西中野町と小泉町の境界地の東側小川の上の小地蔵堂の橋板となつて通る人々に踏まれています。

一〇 最勝寺の汗かき地蔵

 蜷(にな)川新左衛門親当(ちかもと)は老年になつて京都紫野大徳寺四十四世一休和尚の弟子となり、剃髪して智薀と号しました。一休和尚とともに、しばしば親当の本国越中蜷川庄へ巡錫したが、ついに同庄に一寺を建立し親当を開山としました。
 寺を建てるとき、敷地内のもと分れ道の角に建つていた石地蔵の位置が、竈(かまど)の傍になるから他へ移し立てようとしました。一休和尚はそのことを聞いて
『元のままにしておくがよい。今までは分れ道だつたから往来の人を済度したろうがこれからは寺の坊主がする。竈の傍だから何の役にもたたない、ぶち割つて菜漬の圧(お)せ石にするがよい』
そのおり地蔵はたらたらと満身に汗を流しました。大勢の者ども哀れに思い皆それを止めますと、一休は
『分れ道に立てば分れ道の役目がある、竈に立てば竈の役目がある』
といい、すぐ筆を取つて
『地蔵地蔵汗かき地蔵、竈の前の火消坊』
と地蔵の背中に墨くろぐろと書いて立て置かれました。
 あるとき、年歯(としは)の行かない子供が寺の炉へ這うて入つたのを助け上げ、また誤つて寺の庫裏(くり)から火が出かかつた折、夜中のこととて僧侶が寝ていて誰一人知つていなかつたが、地蔵は駆け回り人を呼び起し防いだので大事に至らなかつたと伝え、永くこの寺の宝物として崇(あが)められていました。
 今の上新川郡蜷川村曹洞宗の最勝寺はこの寺であります。
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