氷見の幻島(まぼろしとう)―布勢の円山―

氷見市布施の中心に「布勢の円山(まるやま)」という小高い丘がある。「越中伝説集」によると、かつてこの一帯には「布勢の湖(うみ)」という湖が広がっていたといわれ、円山はその湖に浮かぶ島であったと伝えられている。
 万葉集には、大伴家持が詠んだ

布勢の海の 沖つ白波 あり通ひ いや年のはに 見つつ偲はむ

という歌が収録されていることから、家持は国司として在任していた頃、都から来た知人と布勢の湖で船遊びをしたともいわれている。
 これらの話は事実として紹介されることが多い。しかし「富山ふしぎ探訪」は円山及び湖について次のように否定している。

“(・・・)この付近にかつて湖が広がっていたと聞けば、この小山が小島となって浮かんでいた姿を想像してしまう。江戸時代、すでに円山周辺は陸地だったが、多くの文人墨客がこの地をおとずれ万葉の昔をしのんだ。1803(享和3年)年、伏木勝興寺の住職は、万葉の故地・布勢水海を偲ぶため京都の絵師に布勢湖の絵を描かせた。その絵で円山は島として描かれ、印象は定着した。ところが、この一帯の遺跡から推論すると、布勢の水海は縄文時代こそ円山近くまで迫っていたが、以後徐々に小さくなり、奈良時代すでに円山の周りには広い陸地が広がっていたと思われるという。なぜなら、周囲の山の尾根の先端には古墳が多くあるが、これは村があり、リーダーがいたことを示す。村が出来たのは湖の周りに農業をする平地が広がっていたから、というのがその理由だ。もし布勢の円山が島だったとすると、水位は周囲の山々のふもとにまで達し、平野部がなかったことになる。(・・・)”

家持が湖を詠んだ頃には、既に湖は存在しなかったらしい。では家持は何を見て布勢の円山一帯に湖をイメージしたのか。次の写真を見てほしい。

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これは2010年に私が撮影した円山である。近すぎたため、全体が入りきらなかったが、円山を取り囲む水田が湖のように見え、今でも円山は湖に浮かぶ島のように見える。田や農道が整備される前は今よりもずっと湖に浮かぶ小島のように見えたのではないだろうか。近隣にある十二町潟がそんな想像を更に掻き立ててくれる。

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これは「富山ふしぎ探訪」でも島というイメージを定着させたものとして挙げられている1803年に京都の絵師が描いた布施の湖の想像図である。アスファルトの道路が視界に入る現在では、ここまで広い湖を想像するのは難しくなっている。

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ただ、円山から麓を見下ろすと平地の凹凸がないように見えるので、島から干上がった湖を見ているような感じがした。「越中志徴」に城址と記されているだけあって見晴らしは良い。円山にあった城の詳細は不明だが、明治時代の新聞に、

“布勢の丸山に、家持屋舗の当跡ありと云ふ”(読売新聞1896.5.25)

と書かれている。

 布施という地名については、布勢氏に由来するという伝説があり、それを裏付けるように円山には布勢神社が鎮座しているが、地形や土地条件から推察すると、湖に見えるほど地下水位が高いことから、豊富な“伏”流水に由来するか、もしくはお椀を“伏せ”たような円山の形状に由来するとも考えられる。
 尚、円山には、

ここに於いて栗の木3本見れば下に金が埋めてある

という埋蔵金伝説も残されている。埋蔵金伝説には“三つ葉うつ木”を含む歌が伝わっていることが多いので、“栗の木3本”も同様のものかと思われる。「万葉集」に見られる“三栗(みつぐり)の-”は、イガの中に3つの実が詰まっていることから“中(なか)”という詞を導く枕詞になっていると解釈されている。これを踏まえると上記の伝説は特定の場所を示しているわけではないことがわかる。
 大事な財産を埋めた場所の目印に枯れたり、伐採されたりして見失うリスクのある植物を使ったりはしないだろうから、あくまで伝説だろう。「越中伝説集」には、付近に埋葬者不明の十三塚や十三入江という墳墓があると記しているし、尾根を利用した古墳が見受けられるが、埋蔵金伝説は古墳に付随することが多いため、円山の場合も同種と見ることができる。

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↑万葉歌碑。

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↑旧御影社。

(参考資料)
伝説とやま・越中伝説集・越中志徴・富山ふしぎ探訪・万葉集・読売新聞1896.5.25
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