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女子大生殺し―高岡市野村もう一つの未解決殺人事件―

 みなさんは富山県の未解決殺人事件をいくつご存知だろうか?
 2010年に発生した「富山市大泉地内における夫婦殺人・放火事件」は県内外で情報提供を求めるポスターを目にするし、被疑者として現職の警察官が逮捕された時は衝撃だったが、自供を裏付ける証拠がなく、2018年現在、未解決である。
 2013年に発生した「高岡市野村地内発生 会社役員殺人事件」も大泉の事件ほどではないが、あちこちでポスターを見かける。5年経った今も未解決である。
 その他、未解決事件に興味があって、ネットで調べたことがある人なら1986年に発生して2001年に時効となった古洞ダムにおける「富山市OL殺害・死体遺棄事件」、1989年に発生して2004年に時効となった「朝日町身元不明焼死体事件」なども定番だろう(坪野鉱泉少女2名失踪事件は事件か事故かわかっていないので、厳密に言えば未解決"事件"ではない)。
 ただ、上記以外にも時効を迎えた未解決事件は戦後だけで7件あるが、ネットが普及するはるか前の事件なので、当然ながらネットで検索しても情報が出てこない。匿名掲示板などに断片的に書き込まれることはあるが、情報自体が少ないし、個人の記憶に頼っているので、間違いも散見される。
 というわけで、今回は人々の記憶に埋もれてしまった未解決事件の一つ高岡市野村の女子大生殺しを紹介したい。平成が終わる今書き残さなければ永遠に忘れられてしまう。
 とある休日、車で国道156線を走っていた。高岡市野村に差しかかった時、「殺人事件があった所だなぁ・・・」なんて、2013年の事件のことを思い出していた。殺人のような凶悪事件があった場所というものは何となく嫌な感じがするものだ。自分も同じ目に遭うかもしれない、という生存本能のなせる業なのだろう。少し気が引き締まる。その時、視界に入った川を見てふと子供の頃に父から聞いた話を思い出した。それは「この川で何十年も前に、富大の女の子が殺されて裸で捨てられる事件があって、犯人は捕まらず時効になった」という話だった。まだ明るい時間だったが、月明かりしかない真っ暗な川に全裸の女性の死体が転がる様子を想像して、ただ怯えていた。
 そういえばあの事件ってどんな事件だったんだろう?子供の頃は幽霊を信じていたせいもあり、怖くてそれ以上追究しようという気にならなかったし、調べ方もわからなかったが、今なら怖い以外の感情もわく。いつも通り調べ始めた。

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■発生日時:1965年(昭和40年)5月22日(土)午後9時10分~5月23日(日)午前1時30分
■時効成立:1980年(昭和55年)5月22日午前0時
■事件現場:富山県高岡市野村の農道(現在は舗装)
■被害者:富山大学教育学部3年 西村春恵さん(21)
■概要:
 1965年(昭和40年)5月22日(土)午後11時40分頃、高岡署野村駐在所に高岡市野村の在田建材㈱常務取締役・西村啓一さん(当時46歳)宅から「娘がまだアルバイト先から帰って来ない」と届出があり、高岡署に非常招集がかかった。そして翌23日午前1時半頃、パトロール中の警官が地久子川にすてられた女性の遺体を発見して事件が発覚した。
 殺害されたのは富山大学教育学部3年の西村春恵さん(21)。高岡市三女子(さんよし)の知人宅で小学6年生の家庭教師のアルバイトをしていた。午後9時10分過ぎ、帰宅の途についた春恵さんはこの日に限って、やや遠回りにはなるものの比較的明るい国道沿いの歩道ではなく、逆方向の暗い農道を歩いていた。そして午後9時15分頃、自宅から50~60m手前で何者かに襲われ、稲架(はさ)の陰で強姦された後に口を塞いで絞殺され、殺害現場から約70m離れた地久子川から投げ捨てられた。遺体は地久子川の遺棄現場から200m下流へ流された後に発見された。県警捜査一課と高岡署は婦女暴行、強盗殺人事件として特別捜査本部を設置して捜査を開始。のべ14,000人の捜査員を投入し、現場となった校区760世帯に加え、隣接する現・射水市2,800世帯17,507人を対象に聞き込みやカーボン紙による歯型の採取が行われたが、捜査は難航。発生から15年たった1980年(昭和55年)5月22日午前0時、時効が成立した。15年の歳月を経て農村だった事件現場は新興住宅地に変わっていた。
■参考情報:
・犯人の血液型はB型か非分泌型のO型
・現場は地元の農家以外ほとんど人が通らない農道だったため、土地鑑がある者の犯行とみられていた
・遺体からは犯人のものとみられる歯型がたくさん見つかった。特に右胸に残されていた犬歯の歯型から10代後半~30歳までの男と推理された
・顔と胸にひっかかれた傷跡があった
・現場の農道に残っていた十数ヶ所の足跡から、犯人が履いていたのはかかとが硬質ゴムの革靴かケミカルシューズで、サイズは26cm。体型は中肉中背と推理された
・口を塞いで絞殺していることから顔見知りの犯行か、手慣れた前歴者と推理された
・遺体が川へ投げ捨てられたため、多くの物証が流されてしまった
・付近住民に"事件当時、外出中だった人や最近、様子の変わった人はいませんか"といった質問事項を記載した用紙を郵送して密告を促す手法も取られたが、疑われたことに憤る住民や密告に嫌悪感を示す住民もいた
・一捜査官の推理:死体に噛みつくくらいだから、性に対して無知な思春期の年少者の犯行だ。年少者は遠方ででも性犯罪を起こす。隣接の地区だけではなく砺波方面など遠隔地の者ともいえる。これまで変質者、婦女暴行などの前科・前歴者をとくにマークしたが、むしろ初犯だったのでは?
・一捜査官のコメント:長年の勘で、死体と犯行現場を見るなり"この地区の者の仕業だ。あすの朝、聞き込みをすればホシはすぐ挙がるだろう"と踏んでいた
・地元住民のコメント:めったに人の通らない農道での事件なので、田んぼ、用水を見回った人たちを調べればすぐわかると思っていました
・一捜査官のコメント:シロと断定できない灰色人物が高岡市野村の住民に3人いたが、歯型が似ていること、家族以外の第三者によるアリバイ立証ができていないだけで被疑者とは言えなかった。捜査線上に残っている人物に被疑者はいない
・事件から数日後の捜査で、稲架(はさ)の傍で倒れている春恵さんを目撃しながら、恐ろしくなって届けずに黙っていた男性がいたことがわかっている
・事件当時の三女子や野村の一帯は純農村という雰囲気で、警察の聞き込みに対しても住民の口は堅かった
・春恵さんが身に着けていたセイコー製の角型腕時計、靴一足は見つかっていないことから強盗の線も追っている
・警視庁池袋署に逮捕された高岡市野村出身の賭博詐欺師の男(前科5犯)が「春恵さんと親しかった」と話したことから富山県警に引き渡され、アリバイを調べたところ事件当時、実家に帰省していたことが判明し、血液型も一致したが、春恵さん殺害については否認しており、釈放された
・その他、春恵さんの高校時代の家庭教師も疑われたが、シロとわかった
・捜査本部では犯人を①土地鑑がある野村周辺に住んでいる者②過去の犯歴者③変質・異常者④事件後の行方不明者などに絞り、高岡市在住の1万5千人を調べ、この内6千人のアリバイ捜査を、更に50人の不審者をリストアップして調べたが、犯人と断定できる者はいなかった。
・犯行推定時刻の午後9時15分頃から家族の通報があった午後11時45分まで2時間半、遺体発見の翌午前1時半まで6時間15分経っており、高岡署の捜査本部設置は午前3時と更に遅れた。この間に現場は捜査員や地元の人達の足で荒らされ、足跡捜査を困難にした。

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 凄惨な事件だ。教師になるという夢に向かって着実に進んでいた女子大生の人生を何者かが欲望のおもむくままに襲い、命まで奪った挙句、時効まで逃げ切った。既に天寿を全うして墓場まで真相を持って行ったかもしれないし、警察の見立て通り10代後半~30歳であれば70~80代の高齢者となって今も私達の隣で善良な市民のふりをして暮らしているのかもしれない。
 あの日、もし春恵さんがいつも通り明るい国道を通って帰っていたら、自転車に乗っていたら・・・など、考え始めるとキリがないが、何より悔やまれるのは当時このような凶悪事件に時効が存在したことである。時効を迎えてしまえば警察が捜査することもなくなるし、メディアも取り上げることはなくなる。そして事件のことを知らない若い世代やよそからの転居者が増えるにつれ、事件当時から現場一帯に住んでいる住民も話題にすることはなくなり、事件はさも無かったことのようになっていく。
 今回は実際に現場を歩いて撮影してきた。53年がたって現場の様子は一変していたが、それでも当時をしのぶことができるものがわずかながら残っていた。この場所で、かつて女子大生が殺される事件が確かにあったのだ。
 推定犯行時刻に訪ねてみたかったのだが、時間が取れなかったので、早朝3~5時頃に訪ねた。少し明るくなり始めていた。
 高岡市三女子のタナベ自動車の脇道に入り、ホテル「ロンシャン」まで歩く。この辺りに春恵さんが家庭教師のアルバイトをしていた知人宅があったらしい。当時、「ロンシャン」はまだなかった。


三女子交差点

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ホテル「ロンシャン」前の道を直進すると右手に畑がある。ここを右折して直進する。この道は舗装されているが、車1台分の幅しかなく、左手には畑や空地が点在しており、かつて農道であったことが偲ばれる。直進すると高岡自動車学校の裏にある北一㈱フィルムセンターの敷地を横切る砂利道に続いている。これもまた農道だった頃の名残だろう。この砂利道を構わず進む。

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53年前、春恵さんが殺害後、投げ捨てられた地久子川に架かる橋に着く。

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"投げ捨てられた"と報道されているので、橋の欄干から落とされたものと思われる。

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 橋を渡って更に進むと、右手に小屋のある畑があり、左手の民家敷地内に地蔵堂が建っていた。由来書きがなく、真新しいが、春恵さんを供養するために建てられたものだろう。花が供えられていた。
 2011年に亡くなった捜査官の一人・高木敬一警視は現場に近い三女子に住んでいた。時効後、そして定年後も現場を歩いていたらしい。また、区長をつとめていたとのことなので、高木警視が建てたのだろう。
 春恵さんが絞殺された場所を当時の新聞は写真付きで掲載していたが、殺害現場の傍にあった電柱も背景に映る民家も当時とはガラっと変わっていて、特定はできなかった。恐らくこの地蔵がある場所から東側にある水田までの区間のどこかであると思われる。


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地蔵の前を更に進むと、向いに「だじいなおらしせ」で話題になった和菓子屋「中尾清月堂」が見える広い道路に着く。当時、中尾清月堂の場所は空地だった。右手の角にある水田は春恵さんの自宅があった場所である。事件当日、春恵さんは暗い農道を歩いてこの場所に向かっていた。左斜め前には当時からある高岡市立野村小学校が見えた。

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遺体が発見された地久子川の遺棄現場から200m下流。現在も周囲に民家はなく、雑草が生い茂っているため、近付くのは諦めた。

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 最愛の娘を失った西村さん一家3人は事件後3年ほどして広島県へ引越し、更に大阪府高槻市へ移り、1978年に兵庫県明石市に住居を構えた。この間に春恵さんの母・一枝さんは娘を何者かに殺された心労もたたり、心臓麻痺で亡くなった。一枝さんは、事件後に友人の女性が訪ねた際、娘の嫁入り支度として用意していた着物をタンスから取り出して見せたという。友人の女性は大学卒業後に中学校の教員となり、富山市立芝園中学で定年を迎え退職された。もし春恵さんが生きていたらきっと同じようになっていたことだろう。父・啓一さんは時効直前を控え取材に対しこう答えている。

"もうそろそろだと思っていましたが、あと1年ですか。同じような殺人事件をニュースで聞くたびに春恵のことが思い出され、悲しみ、憎しみがこみ上げてきます。犯人の顔を見るまでは死ねない気持ちです。こうした事件に時効を決めるのはおかしい。春恵のことを忘れたことはありません"

近所の方の証言では、春恵さんは明るく真面目なお嬢さんで、西村さん一家は春恵さんを"はっちゃん"と呼んで可愛がる円満な家庭だったという。




現場は閑静な住宅街です。訪問の際は騒いだり、物を壊したりしないようにお願いします。
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ニホンオオカミ

「伝説とやま(北日本放送㈱)」に「大沢野町誌」を出典として以下のような民話が紹介されている(私的なメモのため一部改変)。

"富山市大沢野町大久保の上大久保と中大久保の間に小高い丘があり、その東側にあった池は子供達の遊び場になっていた。ある日、1人の子守女が主人の子を連れて遊ばせていると、山犬(狼)が忍び寄り、主人の子を喰おうとした。そのことに気付いた子守女は大声で助けを求めたが、近くに誰もおらず、主人の子を連れて共に逃げることも見捨てることもできなかった。そこで子守女はとっさに主人の子に覆いかぶさり、山犬の牙にかかって血まみれになった。しばらくしてこれに気付いた人々が慌てて近寄ると、子守女は既に死んでいたが、腹の下に隠していた主人の子は無事だった。人々は子守女の健気なおこないをたたえ、この丘を女中山(べいやま)と呼ぶようになり、後に訛って弁山(べんやま)になったという。ちなみに"べい"とは女中を意味する方言とのことである。"

先日、パオロ・マッツァリーノ著「みんなの道徳解体新書(㈱筑摩書房)」を読んでいたらp142-143に大正9年改訂版の国定修身教科書に掲載されていた「子守りおつな」という以下のような話が紹介されていた(ふりがなや改行は改変)。

"若狭(現在の北陸地方)の漁師の娘おつなは、一五歳のとき子守り奉公に出された。ある日、主人のこどもをおぶって遊んでいると、野犬がとびかかってきた。犬を振り切って逃げることはできないと判断したおつなは、おぶっていた子を地面におろし、自分がその上に被さった。犬は激しくおつなに噛みつき、多くの傷を負わせた。ようやく駆けつけた人々が犬を打ち殺した。こどもにケガはなかったが、おつなは負傷がひどく、まもなく息絶えた。人々は感心し、おつなのために石碑を立てた。"

2つの話は似ている、と言うより細かい設定を除けば同じ内容である。弁山は現存しないようだが、Googleで「おつな 石碑」と検索するとWikipediaに以下の記事があり、石碑だけでなく石像まで建てられているようである。

"綱女(つな じょ、1755年- 1769年)は、江戸時代に活躍した若狭国の子守である。

1755年(宝暦5年)、福井県遠敷郡小松原村に生まれた。父は漁夫をしていた角左衛門。家は貧しく、15歳で同郡西津の人松見茂太夫(郡手代)の家に子守として奉公したが、ある日、茂太夫の幼児義方をあやして路傍にいたところに狂犬があらわれてきたので、綱は義方を身を以ておおいかぶせ、自分は狂犬の咬むにまかせ、身に十数傷を受け、しかも毅然として幼児を守りとげた。隣人が驚いてはせあつまり、綱を介抱し、茂太夫の家につれかえったが、綱は身の重傷をわすれ、ひたすら義方の無事であったことをよろこんだが、24日目についに死亡した。綱の忠烈な行為は領主の耳に達し、父角左衛門は多額の金を賞与され、綱は西徳寺内にほうむられ、墓碑には「忠烈綱女の墓」と誌された。後3年にして領主はさらに角左衛門に免租し、かつ綱の墓を西徳寺門外に改葬し、寺僧に金をあたえてながく墓守をさせることにした。しかし歳月をへるにしたがって墓は荒廃し、埋葬の場所さえ不明になったので、その後同郡小学校長会の尽力によりあらたに「綱女の墓」なる墓標がたてられ、綱女墓碑保存会によって保存されることになった。"

国立国会図書館サーチ書誌詳細によると「大沢野町誌」は昭和33年(1958年)刊行で、弁山の話の初出は現時点でこの本である。また、綱女の話に対して弁山の話は犠牲者の名前も時代も不明で、富山市上大久保に弁山割という地名が残るものの弁山という山は現存しないため場所の特定は不可、そもそも冒頭に出てくる丘や池が実在したかどうかの確証もない。伝説が先行している状態で、単なる地名由来譚でしかない。

これらのことから弁山の話は史実ではなく、綱女の話が伝播して土着した伝説ではないか、という仮説が立てられるため、今後検証を行っていきたい。

(参考文献)
伝説とやま
みんなの県政1973年(昭和48年)2月号No.50p19越中の伝説 弁山
大沢野町誌

一二 2竜女の与えた竜梅水

 高岡たらい野という所に、名高い瑞竜寺の隠居庵の真興寺という禅宗のお寺がありました。このお寺へいつ頃からか二八余りの美目よい一人の娘が身に綺麗な衣装を着飾り、毎朝雨の降る日も、風の吹く日も怠らず参詣しました。寺の和尚さんが不思議に思い、ある日のこと娘に向い
『御身はどこからお参りなさる、毎朝かかさず御参詣神妙の至り』
とほめました。娘はうつむいて
『お恥しいことながら、おたずねだから包みかくさず申し上げましよう。私は元来人間ではございません。この裏の池に住む竜女でございます。現世、未来の苦みを助かりたく念願し毎日お参り致します。何卒血脈(けちみやく)をお授け下さるようお願いします』
和尚さんはこれを聞いて
『そわいと易い事、さらば明朝お参りの時にお授け申しましよう』
娘『こわ、ありがたい、日頃の念願成就』
と喜び勇んで明朝を約し縁に出で庭に下りたと見る間に忽ち三尺余りの蛇に化けていずくともなく影失せました。
 翌る朝、和尚さんは読経(どきよう)をすまし娘に対面してもんもんを唱え戒名をさずけ血脈を与えました。娘は随喜の涙を流いて押し頂き
『お礼のしるしにきれいな水を参らせましよう』
といい、そのまま姿が消え失せました。程なく寺の庭の中に浄水三尺余り湧き出て、そのほとりに俄かに一本の枝振りのよい梅の木がぬつくと生えましたから、竜梅水と名づけこの名水を村中の人達が樋(とい)を伏せて水を導き飲料水に供しました。

一二 1竜女孝子を助く

 婦負郡古里村長沢の山中にある、一つの小さい池を走影池(はしりかげのいけ)といいます。大昔此の地に六治古(ろくじこ)というものがありました。年のいかない時に父に別れ一生懸命働いて田畑を耕作し、母を大事にしたのでその親孝行は専ら世間の評判になつて誰一人褒(ほ)めない者はありません。年二十になりましたがまだ定まつた妻がいなかつたのです。
 ある日の暮れ方、二八あまりの綺麗な一人の娘が雪路を踏み迷い一夜の宿を乞いますと、母は之をあわれみ家に留めました。日を重ね六治古の妻になる縁談がまとまり婚礼をあげ、間もなく、妻は唯ならない身となつて玉のような一男児、六郎を産みました。
 袋の中から自分が紡ぎ織つた布を取り出し牛馬や農具に替え、自ら人夫を率いてそれと共に荒地を開墾し用水を掘り水を引いて数多の新田に灌ぎました。今の山田川がこれであります。かように働いたので、秋の実入(みいり)も多く、段々身代もゆたかになつて郷里に肩を比べるものなく立派な豪農に出世しました。
 六郎七歳の頃、一日妻は六治古に向い
『私はもともと竜女であります。御身の親孝行に感じ竜王私に君を助けさせられました。今から竜王の許へ帰ります』
と暇乞いし空に向つて昇ると見る刹那、空は俄かに墨を流して真闇となり、雷雨が烈しく耳をつんざました。親子は泣き叫んで追い、一つの池を見出し水中を覗きますと母の面影がありありと水面をはせ通いました。それにちなんで後世、この池を走影池(はしりかげのいけ)というようになりました。

一二 辰年の伝説さまざま

 今昭和三年は辰が幅を利かす歳だから、辰に関する伝説を述べることとしました。古来越中各地に言い囃(はや)され、
自分も幼い頃寝物語に、年寄から聞かされた話も少なくはありません。今から考えると、昔は世の中開けず、理科的知識に乏しいので、烈しい旋風が海では水を、陸では土砂をまき上げて柱をたてたようになつて空へ昇る。所謂竜巻(たつまき)を見て全く竜が天に昇るものと信じました。なお日本海に沿うている海辺の漁師どもが富山湾へ漁に出て『辰の落し子』という長さ一、二寸から三、四寸位、首は馬に似て形は蛇のような小さい動物が折々網にかかるので、これを竜の子だといい、いよいよ伝説の竜の存在を確めました。
 仏法の伝来に伴い、妖僧が宗旨を拡める手段に使い、色々人事上の怪談をこれに絡みつけ、愚民を惑わしたものらしく、しかしその中には教訓を含んだものもあつて棄てられないものもあります。これから古い越中の人は如何に竜を取扱いましたか、古い本にかき残されたものを拾いあつめて、お正月の慰みに供しましよう。
つぶやき
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